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「私」は目を開ける。辺り一面は、真っ黒だった。一筋の光すら射さない、黒一色。耳を済ませても風の音すら聞こえず、視界も働かない事から、自分が今どこに立っているのか、それすら把握できない。
身体の感触を確かめる。視覚は機能しないに等しいが、触覚は正常に機能している。手足は欠損なく二本。共に稼働に問題はない。か細いが、心臓や肺の鼓動は確かに覚えている。この鼓動だけが、何も聞こえない暗闇の中で発せられる唯一の音であった。
最も、収穫らしい収穫はそれだけで、それ以外はてんでわからない。「私」を定義する名前も思い出せなければ、過去の記憶らしいものもすっぽりと抜け落ちている。
この場所は何処なのか、そもそもどうしてこのような暗闇にひとり立ち尽くしているのかもわからない。言語を理解でき、話すことができるだけで、他の何もわからなければ赤子と相違ない。
…暫し考えた結果、ひとまず「私」はこの暗闇を歩くことにした。このまま目を閉じ、それこそ赤ん坊のように眠る選択肢もあったが、この「私」は立ち止まり、思考を放棄することを良しとはしないようだ。
一歩ずつ歩む度、足下の黒に波紋が生じる。湖畔の上を歩いているようで、爪先からは濡れたり、冷たいという感触は感じられない。
ただ、波紋は何処までも続いているようで、その実奥で乱が生じている。何か「私」以外の物体が存在するのかもしれない。もしかすれば、この「私」と関係のあるものかもしれない。
そう考えると、胸の奥から蝋燭の火のような小さな期待が湧き上がる。自然と足取りは軽くなり、波紋のぶつかるほうへ歩み続ける。
物体に近付いていくにつれて、この真っ暗な空間にいて、細い糸のような光が射していることがわかる。そして、黒の波紋がその糸にぶつかっていることも、それとなく理解した。
そうとわかると、足取りはいっそう軽くなり、ほとんど駆け足といっていい速さで目的地に近寄っていく。
目と鼻の距離まで辿り着くと、「私」はまるで幼子のように期待を露にし、その光る糸に触れる。
「──ッ!」
指先から静電気のような刺す痛みが発せられた、と思った次の瞬間には、身体の平行感覚が大きく乱されていた。
何が起こったのかを理解する前に「私」は仰向けに倒れ込み、まるで鋭い刃物で切り落としたかのように意識が途絶えてしまった。
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