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──僕、高尾野浩暉は人混みが嫌いだ。
…好きな人の方がむしろ珍しいだろうが、おそらく自分に限っては、その事情はいささか異なる。
極端な人見知りではないけれど、僕は人が密集し過ぎるのは、息苦しくて思えて仕方がない。物理的にではなく、心理的、精神的な面で『重い』と感じている。
加えて、今日はざんざん降りの雨だ。沸き立つ湿気とぐちょぐちょに濡れた靴もさることながら、陽光の下にいないというだけでどうにも上向きになれない。
…交差点の前に立つ。街往く人々が、一瞬だけ立ち止まる、この瞬間。あと数分もないうちに、波が動く、わずかな暇。
どうしてそこに意識が向いたのか、自分でもわからない。僕は、ふと雨の音の中央に眼が移ろう。そこには──、
『──、──』
…気のせい、ではない。自分に向けて何かを向けられたような感覚が走る。決して不快なものではないが、違和感は拭えない。
遂に幻聴まで発症したのか、と悲観するのもそこそこに、その声のような、或いは視線か。その発生源を目で追う。
──それは、すぐに見つかった。そして、《それ》は一瞬ぎょっとするような場所から放たれていた。
──水溜まりを駆け抜けるタイヤ。生ぬるい空気のなか震わせるエンジン。ぶつかる雨粒。幾重にも重なったいびつな協奏曲の中央に、《それ》は居た。
「…交差点の、幽霊」
──数日前、新聞部のセンパイから聞いた話だ。人が混む瞬間に現れるという、所謂都市伝説だ。そして、今は土曜の昼時。条件としては申し分ない。
彼女も三年間追っかけたが、今だ尻尾を掴めなかったらしい。まさか、僕の前にいきなり現れるとは想定してなかったが。
そんなこちら側の事情などよそに、《それ》は、こっちを見つめていた。いくら眼球を擦ろうとも、それは夢幻の類いではないと立証するだけだった。自意識過剰でも何でもなく、俺の眼を、姿を、その瞳に映していた。
雨の下に居るにも関わらず、その姿に水滴ひとつ付かない。時折水溜まりをタイヤが通り抜ける際跳ねる泥を浴びても、まるで蜃気楼のように通り抜けてしまう。
そんな、どう見ても怪奇な存在を目の当たりにしているというのに、俺には不思議と恐怖感が湧いてこなかった。
変な話、俺には《それ》が亡者のように呆然と何処か見つめているのではなく、生者のように…いや、好奇心豊かに瞳を輝かせている風にさえ伺えるからだ。
そんな珍妙な存在をまじまじと観察していると、辺りの波が揺らぐ。信号が青になったのだ。
普段ならそのまま波に乗って、そのまま向こう岸まで流れていくところだ。だが、今日は違う。
自分でも変だと思うが、今日は人混みに逆らいたくなった。反抗期、というヤツなのか。いずれにせよ、邪魔物が無くなった俺は《それ》に向けて一目散に歩き始めた。
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