今日も人は波を往く。

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…ちゃぷん、ちゃぷん。大小様々な水溜まりを踏み越えて、膨大な傘の群を掻き分けて、俺はうっすらとした《それ》へと近付いていく。  あちら側はというと、とても意外そうな顔をしていた。あっちからじっと見つめていた癖に、近付かれるとあたふたして周りをキョロキョロとする始末。  本当に幽霊…なのか? そんな疑問が頭を過る程度には、《それ》に対して忌避感のようなものが薄れている。  幽霊特有の不気味さ、という気配みたいなものはまるで感じられず、何だったらほんわかとした雰囲気すら発せられる。小動物といい勝負だ。 『……!!』  踵を返して、一目散に逃げる幽霊。《それ》の姿は恥ずかしがって退散する風にしか見えない。流石幽霊、雑踏など障害にならないと言わんばかりにすり抜けていく。  急いで後を追う…が、僕の息が上がる前にあっさり追い付いてしまった。何だったら傘をさした人混みを掻き分けるほうが面倒だった。  一方の《それ》は膝を着くほど息を切らせて、フルマラソンでも終えたのかと錯覚するくらい疲労困憊であった。  正直拍子抜けするくらい《それ》はトロかった。小学生一年生のほうがまだ足が速いんじゃないか。貧弱すぎる。 『ぜぇ…ぜえ…』 「ち、ちょっと。大丈夫ッスか?」  クタクタになった《それ》に、僕は無意識に手をさしのべてしまった。最早脳内の幽霊という概念がすっぽ抜けているようだ。それくらい、目の前の《それ》は幽霊には見えなかった。 『ぜぇ…ぜえ。ひぃ…』  なぜかわからないが、《それ》は息絶え絶えのまま、芋虫みたく雨で濡れた地面を這って逃げようとする。 「ちょっ、なんで逃げ──」 『わっ、わたしは悪い幽霊じゃありませんからーっ!』 ……え? 『……ん? 違うんですか? その鞄の中に塩とかコンパクト錫杖とか入ってるんじゃないの?』 「…そんなオカルトなモノ持ち歩いてませんよ。いいから立ってくださいよ」 『はぁ…じゃ、ありがたく』  そう言って、僕の手を取って、フラフラと立ち上がる。 ……ちょっと待て、なんでこいつは僕の手に触れられる? さっきまで雑踏をすり抜けていた筈だ。 『あっ、触れる。あなた、どっかのお寺の息子さんですか?』 「いや…あ、でも爺ちゃんが拝み屋をやってた覚えがある」 『なるほど~、だからわたしが見えるし、触れるんですね。たまに居るんですよ、そういう変な人』  こんなヘナチョコ幽霊にだけは言われたくない。そういう反発心が真っ先に出る。  というか、今更な話だが。さっきまで遠目だったから気が付かなかったが、こうして間近で立ってみて、件の幽霊が少女であるとわかった。  失礼を承知で分析すると、外見年齢は大体俺より歳下。髪は黒いロングヘアーで、アクセサリーに三角の形のリボンが結んである。  それだけなら一般的な幽霊っぽいが、決定的に違いがあるとすれば、血色が明らかにいいという点か。  見つけたのが赤信号の交差点のど真ん中じゃなければ、普通の人と比べて判別は難しそうだ。  身に付けているのも死に装束ではなく、何処かの学校の制服だ。デザインがどことなく古いのは、やはり過去の人間だからか。 『…ところで、どちら様ですか?』 …そんなもんこっちが訊きたい。と、言いたい気持ちを呑み込んで、咳払いひとつをして、 「…高尾野浩暉。あん…じゃない、貴女は?」 『わたし? わたしは──』 ──勢いが弱まり、にわか雨になりつつあるなか、雨音混じりの雑踏に紛れて、乱れた息を整えながら、彼女は言う。 『…朝日青那(あさひせいな)。よろしく、浩暉クン』 ──にぱーっ、とした笑顔が、雲の切れ間から注ぐ光に照らされていた。 …が、直後に雑踏では誤魔化しきれないような、唸るような音が響き渡る。 『……お腹、空きました』
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