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エルドレッドが屋敷に戻ってきたのは、夜もしばらく経ってからのことだった。
彼を出迎えたのは……使用人ではなく、アシタルとローランドであった。
「……あれ? 君は……」
エルドレッドはアシタルを一瞥し――顔ではなく服装を見て――「ああ」と困ったように笑んだ。
「えーと君は……アシタルちゃん、だっけ? どうしたの、こんな夜にこんな所で」
「突然ごめんなさい。……今、私がここにいるのは、ヒーラーとしての役割があるからです」
ヒーラー。
その言葉に、エルドレッドの柳眉がピクリと動く。
「ヒーラー? あー、神殿の人だもんね、お疲れ様。オヤジの肩こりでも治しに来たの? 大変だねぇ」
「いいえ。……エルドレッド様、貴方の病についてです」
「……ちょっとちょっと、いきなりどしたのー? ひょっとしてお酒入ってる? 俺が病気とか……こんなに元気なのに? ナイナイ!」
エルドレッドはからから笑った。一見すれば本当に言葉通りに思っているように見えるが……それがはぐらかす為の偽りであることを、アシタルにはもう分かっていた。
だからこそ。
「エルドレッド様、私の目は何色ですか?」
「――!」
エルドレッドの笑みが止まった。
彼の目には――アシタルの首から上は、真っ黒く塗り潰された虚無の穴として映っている。
「……、」
エルドレッドは『不気味な黒い穴』を漫然と見据えつつ、すぐへらりと笑ってみせる。
「……綺麗すぎて、なんとも形容できないなぁ。世界に二つとない色だもの」
「エルドレッド様……貴方がそうして、私達の『外見』を褒めて下さるのは……病を隠す為、だったんですね?」
きっと今の言葉は、病が露呈しないように怪しまれないようにと身に付けてしまった『テンプレート』で……エルドレッドの努力の結果なのだろう。
そしてアシタルは想像する。ポッカリと空いた恐ろしい暗闇を見詰めながら、それを「可愛い」「綺麗」「美しい」と本心に反して言い続けなければならないことを、その虚しさを、それらがどれほど心を軋ませるかを。
――バレてしまったらどうしよう、という不安と常に背中合わせでいることを。
(だから……彼は『遠い』んだ)
きっと、途方もない隔絶感が……あるのだろう。
「……病、ねえ」
エルドレッドの余裕ぶった笑みに、苦いものが混ざっている。
「さては、あのオヤジから何か言われた? もしくは、神殿の……あの吸血鬼司祭から?」
その言葉にアシタルは頷いた。途端、エルドレッドは大声で笑い始めた。
「あっはっはっはっは――そーかそーか。ま、バレちゃったならしょーがないや。幻滅した? ガッカリした? 俺が実は……上っ面すら見てないクズだって分かっちゃってさ!」
「いいえ、エルドレッド様。貴方の言葉は、いつだって誰かを傷付ける『悪意』のものではなかった――そうですよね?」
「……っ」
「本当にバレたくないのなら、ずっと館に引きこもるという手があったのに、それをなされなかった……それは貴方が、人を愛する御方だからではないのですか。何よりも――孤独を厭うたからではありませんか? そして……」
アシタルは一呼吸の後、彼の目を見据えて言った。
「思っていたのではないですか? 誰かに『分かって欲しい』と。……エルドレッド様、私は貴方のことを『分かりたい』です」
我ながら思い付くままに言ってしまった――と思う。
けれど遠回しな揺さぶりができるほど、アシタルは器用ではなかった。器用でないなら、そのまま自分の思いを見せるのみだ。
「……」
エルドレッドは沈黙している。
ややあって、大きな溜め息。彼はおもむろに、近くのソファにどかっと腰を下ろした。
「……たった一人の世継ぎが病気とか 、領主様にとっちゃ不都合でしょ」
背を預け、遠くを見ながら、エルドレッドはポツリポツリと語り始めた。
「人の顔を覚えられないって、トップの人間としてハンデでしかないじゃん。政治はコネがものを言うのにさ。何より、病気の次期領主なんて、領民が許さないでしょ、不安しかないって。上っ面すら見えない男に、民の心が分かるのか? って。……俺は領主になるべき男じゃない。……なのに!」
誰もが期待の目を向けてくる。理想像を押し付けてくる。
素敵な次期領主様。
かっこいい次期領主様。
完璧な次期領主。
いつか、シリウスフォールで一番偉くなる人!
――そんなプレッシャーに加えて、『他者と違う』という孤独感。隔絶感。
しかしその理由――病のことをひけらかす訳にもいかない。それこそ失望の眼差しに射殺されてしまう。
追い詰められていく心はやがて、「それでもがんばろう」という当初のエルドレッドの思いすら磨り潰した。
ただただエルドレッドの心に残ったのは、焦燥、孤独、不安――。
「オヤジだって、『お前の為』なんて言いながら、利きもしない治療をいくつも試そうとして……何回、何回、『治るかもしれない』って希望から突き落とされたことか! もうたくさんだ……オヤジの『お前の為』は、『オヤジの為』なんだ、理想的な次期領主様を作る為の……自分の世間体の為の……」
遊び呆けるダメ息子であれば、諦めてくれると思ったのになぁ。
エルドレッドはポツリと付け加えて、うなだれた。
アシタルはじっと聴いていた。
……聴けば聴くほど、彼の『違うことの孤独』を思い知る。
そしてその孤独が、他者との関わりにおいてフィルターになってしまっていることを。
アシタルはそっとローランドの方を見た。頷いた彼が、後押しのように背を押してくれる。
「自分だけが、皆と違う世界――なのに、周りは自分に理想と期待の矢を突き立ててくる――それって、凄く……不安で、寂しくて、怖いと……思います」
言いながら、アシタルはエルドレッドの隣に腰を下ろした。
アシタルだって、落ちこぼれという『皆と違う』ことが苦しかった。
家族から資金援助までしてもらって上京しておいて、神殿の皆にお世話になっておいて、ヒーラーとしての才能が全く芽生えない自分が辛かった。
皆の『がんばって』という期待に応えられない自分のことが、虚しかった。
「でも……領主様は、領主様がエルドレッド様に言う『お前の為』は、偽りでもエゴでもないんです」
アシタルは一枚の紙を取り出した。
領主ヴィクターが見せてくれた、幼き日のエルドレッドの絵だ。
「これっ……!」
エルドレッドが目を見開いた。
「捨てたはず……『おかしい』って、オヤジに言われたから……!」
「ヴィクター様はずっとこれを持っておられたそうです。シワを伸ばして、丁寧に折り畳んで……そして、貴方がこの絵を見せた時に言ってしまった『おかしい』という言葉を、ずっと後悔されておられました。……謝りたい、と。ひどいことを言ってしまった、と」
「……!」
アシタルはヴィクターから話を聴いていた。それは彼の心からの本心で――息子へ彼の口から直接話しても、悲しいけれどうまく届かない言葉達だ。だからアシタルが届けなければならない。
エルドレッドは唇を震わせ、それから顔を歪め、視線を惑わせている。
「エルドレッド様。……領主様が貴方の病を治したいのは、次期領主としてふさわしくあって欲しいからでも、病の息子がいることが恥ずかしいからでもありません。……貴方を小さな頃から悩ませている原因を、どうにか取り除いてやりたいと願っておられるからなんです」
領主だからではない。父親だからなのだと、アシタルはエルドレッドに伝える。
そして、だからこそ、病を治せるかもしれないアシタルが派遣されたのだ。
エルドレッドの心に、アシタルの言葉は確かに届いている。……もう一押し、ここで決めねばなるまい。アシタルは一呼吸して、凛と告げた。
「領主様は、エルドレッド様を愛しておられます。大切な、世界でたった一人の、息子だから――」
――私はエルドレッドを愛している。世界でたった一人の、大切な息子なんだ。
アシタルはヴィクターの言葉を思い出しつつ、そのままを伝えた。
そして、右手を差し出す。
「……エルドレッド様。進みましょう」
踏み出すのは、彼だ。
エルドレッドはアシタルの手を見、彼女の『顔』を見て……
「――……君ってさ、根性あるよね」
「どうでしょう……ふふ。生意気で空気が読めないだけかもしれませんね?」
「人の心の中に土足でさぁ……全く、よくやるよ。でもさ、ここまで女の子に発破かけられてビビってるのもカッコ悪いよね。……俺、『次期領主様』だし?」
なんて片眉を上げて笑って。
エルドレッドはアシタルの右手をしかと握った。
アシタルは交わした体温から、希望と願いをありったけ込める――
――その瞬間だ。
「う あァッ!!」
エルドレッドは目を見開いたかと思うと、両目を押さえてうずくまる。
「エルドレッド様!?」
アシタルも、そばで静かに見守っていたローランドも、仰天して彼を気遣う。
エルドレッドは両目を押さえたまま……突然立ち上がると、走り出してしまった。
「ちょ、ちょっと……!?」
「彼の目、治ったのでしょうか?」
狼狽するアシタルに、ローランドが問う。アシタルは「分からないです」と答えるしかない。
とにかく、追いかけねばなるまい。
――エルドレッドは走った。
こんなにも全力疾走したのはいつ以来か、そして屋敷の広さに始めて愚痴の気持ちが湧いた。
真っ直ぐ、向かったのは――父親の、すなわち領主の部屋。
勢い良くドアを開いた。
「――っ!」
言葉も忘れて、息を弾ませて、エルドレッドは室内を見渡した――。
椅子に腰かけていたのは。
真っ黒なのっぺらぼう人間なんかじゃなくて。
初老の近い男だ。鋭い眼光をした、『生まれて初めて見る』顔だ。
しかしその服装や佇まいを、エルドレッドはしっかりと覚えていた。
「……オヤジ?」
もっとしっかり見たいのに。
不思議だ。
視界がどんどん、潤んで霞んでぼやけていく。
「エルドレッド……まさか。見える、のか?」
領主ヴィクターは目を見開きながら立ち上がる。おそるおそる、立ち尽くす息子へと歩み寄る。
「……は、はは。なんだぁ、そんな『顔』、してたのかぁ……」
言いたい言葉が心の中で氾濫して、エルドレッドはくしゃりと笑いながらそんな言葉を絞り出した。……みっともないほど、ボロボロ泣きながら。
「エルドレッド……! ああ、神よ……よかった、よかった……!」
「父さん……ごめん……俺、」
「良いんだ。……良いんだよ。私の方こそ……」
ヴィクターは優しく息子を抱き締める。
お互い、自分が相手に歩み寄れていなかったことを理解していた。
だから今、必要なのは……お互いが許し合う寛容だということも。
「……これから、お互いに歩み寄れると良いですね」
開け放たれた部屋の外、アシタルと共に親子を見守るローランドが、彼女に言った。
「二人の新しい出発点、ですね!」
頷くアシタルは優しく見詰めている。二人ならきっと大丈夫だろう。お互いの本心を話して、少しずつ分かり合って……一緒に進んでいけるはずだ。
「そういえばさ、父さん」
一段落の後。
鏡で『自分の顔』をまじまじと見ながら、エルドレッドはヴィクターに問う。
「俺って自分でもビックリするくらいメチャクチャにイケメンだけどさ、父さんに似てないよね」
「……それはどういう意味だ?」
「や、父さんはイケメンってゆーか厳しい系? 人相悪いってゆーか」
「……お前な……」
仲直りしたが態度はブレない息子の様子に溜め息を吐きつつ、領主は懐からひとつのペンダントを取り出した。それはロケットペンダントで――開いて、息子に見せる。
「……エッ。女装した俺!? 美人すぎる」
「馬鹿者、お前の母親だ」
それは今は亡き領主婦人――エルドレッドの母親、ヴィクターの妻が彫られた、銀造りのロケットペンダントだ。
「俺って母さん似だったんだ……そんで父さんは面食いだったのな」
「お前……お前な……一言多いぞ」
「これからはちゃんと言いたいことを言ってこうと思った次第でして?」
「そういうのを減らず口と言うのだぞ……」
やれやれとヴィクターは肩を竦めた。
と、「あっもしかして」とエルドレッドが手を打つ。
「バートに修理頼んでたのってこれ?」
「そうだ。……少しくすんでしまっていたのでね」
「あー、それであんなに、『早く仕上げないと!』ってヒステリーしてたのねバート」
「まあ彼がああなのはいつもだがな」
「確かに」
「腕は確かなのだがな……」
「俺も父さん彫ったペンダント頼もうかな~」
「……」
「あらま~~お父様ったら照れていらっしゃる~~」
「こら、怒るぞっ」
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