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「金曜日に会いに来て」
彼女はいつも私にそう言った。
私はそれを律儀に守り毎週金曜日に、夜の街で彼女と落ち合った。
金曜日の彼女は美しく、しなやかな仕草はいつも、私を魅了するに十分すぎるほどだった。彼女と過ごす時間は短く、私はいけないと思いつつ、いつも彼女を引き留めた。
しかし、彼女はそれをひらりとかわすと、「また来週、金曜日に会いに来て」と、私の耳元で囁いた。私はその余韻を楽しみつつ一週間を過ごしたが、ある時、思いが募りいつものように去ろうとする彼女を強く引き留めた。
もはや、彼女には家庭があり、私とのことはほんのお遊びと思っているのではと疑ったのだ。
しばらく無言となった彼女だったが、鞄からペンを取り出すと、手相でも見るかのように私の手を取り、ワイシャツの袖口にサラサラと字を書いた。
「来週の金曜日、ここに来て」
少しにじんだ逆さまのそれは、とある住所であった。
私は土曜日、日曜日と心躍る様に過ごした。
やっと彼女が私に心を開いてくれたように思えた。
月曜日になっても私は浮かれており、同僚にも不思議がられた。
書類作成でパソコンに向かっていても、会議の最中でも彼女のことが頭から離れなかった。
騒いだ心は収めることができず、私は彼女との約束を破り、木曜日に仕事が終わると、さきの住所まで行った。
その住所にはごく普通のアパートがあった。簡素なその建物は彼女のイメージとは少し違ったが、そこに彼女が住んでいるかと思うと、私にはどんな場所でもよかった。
シャツに書かれていた部屋の番号を確認すると、部屋にはすでに灯りがともっていた。
私は階段を上りその一番奥の部屋まで行き、チャイムを押した。
室内で足音がし、ドアの向うに人が来たのが分かった。
彼女は怒るだろうか、それとも笑って許してくれるだろうか、私にはどちらの彼女も愛しかった。
「はーい」
返事とともに開かれたドアの先に立っていたのは鬼だった。
赤い顔に二本の角を生やし、金色の虎柄パンツを履いた鬼がそこには立っていた。
「何か御用ですか?」
太く低い声は私の腹に響いた。
大きな背丈は天井にすれるようで、少し屈めた背とドアを押さえた太い腕に私は圧倒された。
「いえ……。間違えました」
閉まりかけたドアの向うに、彼女が以前履いていた真っ赤なヒールが見えた。
その真っ赤なヒールを彼女が履くと、いつもより彼女の顔が近くなって私は嬉しかった。
帰り道コンビニに寄り、牛乳を買った。
愛想のない店員が、丁寧に牛乳をビニール袋に入れてくれた。
翌日、出社した私を同僚は、張り切り過ぎたから急激に失速するのだとからかった。
金曜日のその日、私は彼女の家に行かなかった。
その後、彼女と以前行った店などにも寄り付かなくなった。
そうなるともう私は、彼女と会う前の私になった。
心が波打つこともなく日々を淡々と過ごしていたが、ある時彼女の噂を耳にした。
地球防衛軍に属していた彼女はこの度、ある重大な過失を犯し、僻地に赴任することになったという馬鹿げたものだった。
私はそれを酒を飲み笑いながら聞いていたが、頭にはあのドアの向うの鬼が浮かんだ。
逞しい体躯にあの凄まじいまでの赤。
黒い静かな瞳からは深い知性を感じた。
私は彼女が真っ赤なヒールを脱ぎ、鬼の胸に飛び込むところを想像した。
だが、すぐに、いやそんな馬鹿なと、ブルーレディのグラスを飲み干した。
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