第1学期

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「岡野、終わった?」  郁は、閉じた楽譜を手提げにしまいながら、目だけをあげた。  音楽室のカーテンが、五月の風に揺れている。心持ち日に焼けて黄ばんだ生地の間から、予想したとおりの顔がのぞいていた。運動部らしく短くそろえた髪。窓枠に頬づえをついて、こっちを見ている。  郁は、口をへの字に結び、ふん、と息をして目をそらした。  グランドピアノの譜面台を倒し、奥にスライドさせる。それから、手提げを椅子の上に残してピアノの脇に回り、重たい蓋を右手で支えながら、左手でポールの上端を蓋から外した。手を挟まないように注意しながら、ゆっくりと蓋を下ろす。  和泉の声が追いかけてきた。 「おい、知らん顔すんなよ。まだ怒ってんの?」  かちんときた。郁は、きっと和泉を見た。 「もちろん、怒ってるよ。なんで、わたしがこんなとこで弾いてると思ってるの」 「だって、上手いじゃん。伴奏くらい楽勝だろ。みんなに弾いてみせたらいいんだよ」  したり顔で言う。自分のことでもないのに、なんでこんなに自慢げなのか、さっぱり分からない。 「わたしくらいじゃ、上手いなんて言わない。やるつもりなんてなかったのに、和泉が推薦なんかするからだよ。合唱コンクールの伴奏なんてありえない」  郁は、手提げの持ち手を乱暴につかんで、肩にかけた。 「待てよ。すぐ着替えてくる。一緒に帰ろう」 「待たないよ。そうちゃん、来てるんだもん」  和泉が苦々しげな顔をして、「またか」とつぶやいた。  会ったこともないくせに、一体何が気に入らないのか知らないけれど、そうちゃん──お母さんの弟の話になると、和泉は決まってこんな顔をする。
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