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ハノンは、レッスンの始まりの儀式みたいなものだ。
教本の最初から最後までこれまでに何回弾いたか、自分でも分からない。小さい頃から教わっている山科先生の指示に従って、いくつかの練習曲で指をほぐしてから、今日は、半音階を徹底的にさらう。
次は、ツェルニー五十番だ。
ツェルニーは、譜読みは簡単だけれど、指定された速さに近づけるには、かなり練習がいる。指番号をきっちり守り、音のつぶを揃えて。家で練習してきたとおりに、速くなったり遅くなったりしないように、同じ速さでミスなく弾く。
それから、モーツアルトのソナタ。これは、面白いといえば面白いけれど、今のところは、よくも悪くもあっけらかんとしたイメージだ。もっと大人になれば、もう少しよさが分かるんだろうか、と思ってしまう。
今の郁は、もっとドラマティックなものの方が楽しかったりする。
そういう意味では、先週から始めたシューベルトの即興曲は、とても面白い。まだ譜読みができたかどうかという段階だけれど、繰り返し出てくるフレーズが印象的で、音の世界にどっぷり浸れそうだ。
一時間半のレッスンは、今日もあっという間に終わった。
「うん、いいんじゃない? シューベルト、郁ちゃんには合ってるかもね」
山科先生が、満足そうに言った。
「九月だから、少し多めに出しちゃおうかな」
「“九月だから”って何ですか?」
郁が尋ねると、山科先生はにこっとして「涼しくなって、ピアノが楽しくなる季節」と分かり切ったことみたいに言った。
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