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 死の思い出しか残っていない場所なのに惹かれるのは、やはりそこが自分の生まれた場所だからだろうか。或いは両親の影を求めているのだろうか。  七歳の頃の青木(あおき)涼火(りょうか)は立派な屋敷で暮らしていた。成金な両親による成金趣味全開な家だし、広すぎて家の中で迷子になるという屈辱を被った事もあったが、それでも涼火はそこを気に入っていたのだ。思えば、殊勝な価値観を持つ事のできない性質は生まれついてのものだったのだろう。  たとえば『思い通りにならないからこそこの世は面白い』という考え方がある。涼火はそれに全く共感できない。そんな健気にはなれない。何もかも自分の思い通りになればいいと思うし、小さくて穏やかな幸せよりもデカい幸せの方が欲しいし、金も地位も名誉もあればあるだけいいと思っている。  もちろん七歳当時の彼女はそんな具体的な思想など持ち合わせてはいなかったが、そういう論理に合致する心待ちはすでに備えていたのだ。  そんな自分に相応しい広い家の構造をやっと覚えられた日、涼火はわざと遠回りな道を選んで母の部屋へ向かってみる事にした。  二階の子供部屋から一階まで階段を降り、ベクシンスキーの絵が飾られた居間へ。広い家とはいえ本格的な洋館でもないのに、これ見よがしに絵画を飾るのは似合わないなと、子供心に思ったりした。テレビや本棚といった俗的なアイテムと調和が取れていない。ダークブラウンの長いテーブルの上にはコーヒー豆や菓子類がいくつか載っている。涼火はラングドシャを何枚か頂戴し、居間を後にする。  次に風呂場(さすがにゴシックな雰囲気を出すのは難しかったようで、ここは一層ボロが出ている)を経由し、家のちょうど左側面に位置する螺旋階段を三階まで上がった。廊下を進み、物置として使われている部屋に寄る。学術書から漫画までありとあらゆる種類の本が収められた背の高い棚、プリンターのような頻繁に使わない機器、冬以外は用無しのストーブ、買ったはいいがいまいち気に入らなかったらしい家具や雑貨などなどが混在している。  そこを出て廊下を右折、直進、右折からの直近の扉。そこが母の部屋だ。涼火は閉じられた扉に向かって声をかける。 「お母さーん」  返事はない。確か外出はしていないはずだが。 「いないの? あのさー、お腹空いたから苺チーズのスコーン食べたいんだけど」  返事はない。  少しだけ苛立ち、涼火はドアノブに手をかけた。ノックもせずにノブをぐいっと回す。そして中に入った。  赤と黒を基調とした瀟洒なその空間に母はいた。机に突っ伏している。 「お母さん?」  うとうとして居眠りしている体勢ではないとわかった。涼火は駆け寄り、母を揺さぶろうとした……しかし刺激の強すぎる視覚情報に脳の容量が圧迫され、しばらく固まってしまった。  母は口から血を垂れ流し、目をカッと見開いていた。 「………………」  空気中を漂う微生物達さえも硬直しているかのような静止した時間が流れた。目が乾いて無意識にした瞬きが、涼火をハッとさせた。母が死んでいる。 「おと……お父さん!」  大き過ぎてまだインストールしきれていない悲しみはしかし、1%また1%と着実に涼火の中にダウンロードされていった。母の部屋から対角線の向こうの方向にある父の部屋へ急いだ。 「お父さん!」  扉をノックするも反応はない。涼火の頭に稲妻が一閃し、数秒後の未来を直観した。そしてそれを確かめに行くと……。  ベッドに横たわり、やはり口から吐血している父の姿があった。  その後はほとんど無意識に行動した。両親という最も近い大人が突然永久にいなくなり、子供一人で取り残された不安感に視界を滲ませながらも、父方の祖父母宅へ電話をかけ、事態を知らせた。あとは涼火が何もせずとも色んな大人達の手によって色んな手続きが行われ、気付けば涼火は叔母の家に引き取られる事になっていた。 「じゃあ、叔母さんのところでいい子にするんだよ」 「涼火ちゃん、これからよろしくね」  祖父と叔母の言葉に涼火は何も答えなかった。数分前に聞こえた話し合いの内容に少し白けていた。 『うちじゃちょっとねえ……可哀想だし面倒見てあげたいけど』 『美恵(みえ)さんのところは一人だったな? あの子を預かってくれないかね。他に親戚もいないし……』 『私のところですか? まぁそうですね、スペース的には問題ないですし……』  今思えば、その会話は別段冷たいものではなかったが、涼火の耳はそんな慈悲のある評価を下しはしなかったのだ。  叔母の青木美恵との暮らしは物足りなかった。両親の遺産はあるものの、叔母の住むアパートの一室は実に平凡な面積だ。あの屋敷に生まれ育った感性の持ち主としては、平凡どころか狭い。それとも、普通の感性の人から見てもやはり狭いのだろうか。そして叔母はこれまた平凡な携帯ショップ店員だ。  ただ、時間が経てば両親の死への悲しみは確実に和らいだ。時間は普遍的な薬だ。悲しむ代わりに、考えるようになった。両親はなぜ死んだのかを。服毒による死亡だと知らされたが、自殺なのか他殺なのかはわからない。子供の精神衛生的に良くないと感じてか、祖父母及び叔母は涼火をその話題に一切近づけなかった。  いつまで経っても。 「私はもう十七歳だぞ」  高校二年の秋。涼火は放課後になったばかりの教室にて、机を指で叩きながらスマホ画面を睨みつけていた。また叔母から過保護なLEINが来ていやがる。 『折りたたみ傘持ってる? 予報では大丈夫そうだったのに! 迎えに行こうか?』  涼火は画面の上に指を華麗に交差させる。 『いいっつーの。仕事あるでしょ。折りたたみぐらい持ってっから』  本当は持っていなかったが、保護者に迎えに来られるよりは滝の中をくぐって帰宅する方がマシだ。涼火は濡れる覚悟をして窓の外を睨んだ。包丁の刀身のような色をした空が無遠慮に雨を吐き出している。 「なんだなんかイラついてんなー」  前の方の席から、親友の五十嵐(いがらし)(あけみ)がチャラついた足取りでやって来た。かなり背が高く、やや男っぽい容貌と口調の女だ。 「叔母さんだよ。仕事あるのに迎えに行こうかだってよ。過保護過ぎてやんなるわ」 「あー。いやでも普通こんな可愛い姪がいたらさー」 「可愛い子には旅させろよ」 「いやそれも一理あるけど」  一応の納得を見せた直後、朱は吹き出した。 「可愛いって部分は否定しないんかい」 「私が謙遜とかそれに類する根性嫌いなの知ってるでしょ?」 「わかってるよ。で、傘持ってんのか?」 「ない」 「だろうな」  得意げにニヤつき、朱は鞄から黒い無地の折りたたみ傘を刀のように引き抜いた。 「一緒に帰ろうぜ」 「おーありがと」  二人は傘を広げて校門を出た。狭い。わかってはいたが、折りたたみ傘の面積で高校生二人の体を雨から防護するのは厳しい。傘の縁の外だけびしょ濡れになる心地悪さを感じながら二人は駅への道を歩いていく。  その道中で、標準的な家の三、四倍の面積を誇る灰色の空き家を通りがかる。涼火は隣の親友に声をかけた。 「ちょっとここで雨宿りしてかない?」 「ここ? って」  朱は涼火の視線を辿り、空き家を眺める。 「元お前んちじゃねーか」 「うん、だからそこで」 「いや、でももうお前の家じゃないんだろ?」  確かに、青木家はこの屋敷の所有権を売り払った。家を所有し続けるには維持費がかかるし、ましてこの大きさだ。涼火が叔母の家に移ったと同時にここと涼火との縁は切れた。 「でもやっぱりさ……なんていうか未練的なものがあるし」  それに、最近この場所に関して気になる話を聞いた。青木夫妻が死んで以降この家に住んだ家族が二世帯いるそうだが、どちらも半年と経たず去っていったらしい。さらに、この家に出入りする怪しい人間がいるという噂が絶えずこの辺を流れているのだ。 「私の聖域に変な真似してる輩がいるかもしれないならちょっと調べてみたいしね」 「おいおい……」  朱は心配半分、ワクワク半分の眼差しを涼火に突き刺す。  前々から、そのうちこの屋敷に戻って噂の真偽を探ってみたいと思っていたのだ。傘を持っていない時に雨が降り、その道中でこの屋敷を目にし、それにまつわる噂を思い出した。今がまさにこの屋敷を探索する機会かもしれない。そうして時間を潰している間に雨も止むかもしれない事だし。 「正直ワクワクしてもいるんだよ、呪われた屋敷なんていう錆びついたホラーみたいな事がまさか私の元住処に起きてるなんてさ」 「お前そういうの好きだもんな。あたしもだけどさ」  そう。涼火はオカルト好きという共通の趣味によって朱と引き寄せられたのだ。廃墟や空き家の類を一緒に巡ってみた事はないが。  呆れなのか何なのかよくわからない苦笑を浮かべ、朱は涼火の濡れた後ろ姿を追って屋敷へと不法侵入した。
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