道を切り開く勇者

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道を切り開く勇者

 何とも言えない緊張感の中、一限目が開始された。  担当の教師が教壇に立ち、開始の礼から授業が始まる。  しかし、いつもの授業風景からは考えられない程張り詰めた空気が教室を支配しており、生徒達は誰も小声で話す事さえしない。  それこそ、物音を立てる事さえ注意しているのではないかと言う程に。  そんな雰囲気を担当教師も感じ取ったのか、どうにも授業を進め難そうにしている。  その理由ははっきりしていた。  この教室に居る者全て、一人の例外も無くある一点に意識が集中しているからであった。  ―――彼女、一之宮詩依良(いちのみやしいら)へと……。  窓からは夏を匂わせる春の光が射し込み、教室内は気温が先程より上昇しているのが確かであるのに、糸が張り詰めた様な緊張感の中ではそう感じた者は皆無だったろう。  誰も彼も、この教室が暑いのか寒いのかさえ良く分からなくなっていたに違いない。  ピーン……とした耳鳴りでも聞こえそうな雰囲気の中、教壇に立つ教師の声だけが響いていたのだった。  終業のチャイムで、一限目が終了した。  その場にいた生徒達には、その授業が長かったのか短かったのかさえ分からない程の緊張した時間であった。  チャイムの音を合図とするかの様に、大多数の生徒から大きな溜息が漏れ出していた。  今日の授業はまだ始まったばかりだと言うのに、もう全ての授業が消化されたかの様な徒労感を感じている者も少なくない。  ドッと疲れた……一言でそう表現すればピッタリと当て嵌まるのだろう。  だが当の一之宮詩依良はと言うと、特に何も気にした様子はなくただ黙々と次の授業準備を済ませ、今は何らかの文庫本を読んでいた。  片肘を突き、窓から降り注ぐ光の中で読書する彼女はまるで一枚の絵画の様であり、何処か近付き難い雰囲気を醸し出していた。  そう感じているのは、彼女が使う席の前に座っている女生徒と右隣に座る男子生徒も同様であり、非常に居心地が悪そうにそわそわしている。  恐らくこの教室に居る生徒達で、最も神経をすり減らしているのは彼等だろう。  一限目と二限目の間にある、十分と言う短い休憩時間。  詩依良が自己紹介した時から、まだ一時間強しか時間が経っていない。  その短い時間で気持ちを整理し立て直し、彼女に話しかける事が出来る様になった勇者は流石にまだ居なかった。  独特の雰囲気が教室を包む中、二限目も一限目と同様に進行していく。  空気の張りつめた世界で、時間だけが刻々と流れて行った。  しかし先程と若干違うのは、何とかこの状況を打開してやろうと言う意志の様なものが混じり始めた事だった。  二限目と三限目の間にある休憩時間、その勇者は現れた。  どの学校でも、いや……どのクラスにも一人か二人は居るリーダー的存在……“勇者”は、当然この教室にも存在する。  木下(きのした)真綾(まあや)率いる木下グループ。  この教室にいくつかあるグループの、トップに君臨する勇者パーティだ。  彼女はこの状況を打開する為、果敢にも立ち上がったのだ。  いや……この雰囲気が続く事に、もう耐えられなくなったのかもしれない。  もしくは、一之宮詩依良の為に(・・・・・・・・・)何とかしようと考えたのかもしれなかった。  確かにこの状況が続く事は、詩依良にとっても良い事とは言い難い。  このままでは、彼女がこのクラスから浮いた存在になってしまう可能性があるからだ。  何事も最初が肝心と言う言葉がある様に、一度クラスに溶け込むタイミングを逃してしまえば、次の切っ掛けがいつ訪れるか分からない以上、転校生である詩依良がこのクラスへと自然に溶け込むチャンスが先延ばしになる恐れがあるのだ。  ひょっとすればその機会は、長期にわたり失われるかもしれない。  ただし、彼女はそれをこそ望んでいる可能性もある。  だがそれも、本人に聞かなければ分からない事であるのは間違いない。  そして少なくとも、木下真綾はそうではない(・・・・・・)と結論付けたのだろう。  早い段階で詩依良がクラスに溶け込むよう、行動を開始したのは英断と言うより他に無かった。  木下真綾はいつも行動を共にしている吉居(よしい)美幸(みゆき)石本(いしもと)佳奈(かな)を引き連れ、恐る恐る詩依良の座る席へと向かった。  ―――教室中が、彼女達に注目していた……。  木下真綾が左右にお供を伴って、詩依良が座る席の隣へ辿り着いた。  それまで読んでいた本に目を落としていた詩依良は、表情を変える事も無く隣に立った真綾を見上げた。  視線が合った事で真綾の動揺は更に激しいものとなり、明らかな挙動不審に陥っている。  許されるならば、その場から逃走したかったかもしれない。  しかし、従者である筈の吉居美幸と石本佳奈がそれを許さなかった。彼女の袖を摘まんで、話を先へ進める様に促しているのだ。  こうなると最早脅迫に近いものがあり、真綾の退路は断たれていたのだった。  だが勇者の勇者たる由縁は、その切り替え能力の高さにあるのかもしれない。  先程までは及び腰だった彼女だが、意を決したのかしっかりと詩依良と向き合ったのだ。 「あ、あの……い、一之宮さん」  その声、そしてその言葉は、とても緊張を隠す事が出来てはいなかった。  クラス中の生徒からは、無責任にも「頑張れ」と言う声でも聞こえてきそうな雰囲気が発せられ、今や教室内はその空気で充満している。  その場に居る生徒の全てが動きを止め、真綾の一挙手一投足に注視しているのだ。 「はい、なんでしょうか?」  対する詩依良の返答は緊張も警戒も何もない、至極自然体のものだった。  そしてその声に、再び教室中が魅了されてしまった。  甘く涼やかな、聞き惚れてしまう声音だったのだ。  そんな美声を至近距離から受けた木下グループは、すでに魅了か石化状態に陥り、再び微動だに出来なくなってしまっていた。  これがファンタジー世界で、裏ボス……いやラスボス……いやいや、中ボスとの戦闘だったとしても、間違いなくパーティ全滅と言った所だろう。  しかし当たり前の話だが、ここは現実世界であってモンスターの蔓延る世界では無い。  詩依良は表情を変える事無く、真綾が告げるであろう続きを待っている。  だが、真綾達に掛けらた強力な状態異常は回復される気配を見せないでいた。  ―――静寂の時間が流れる……。  ガタッと、詩依良が自分の席を立ち、真綾と正対する。  座ったままでの受け答えは礼儀に反すると思っての行動なのだろう、立ち上がった彼女は体の前で両手を合わせて真綾の言葉を待つ姿勢を見せた。  詩依良が立ち上がる際に椅子の鳴らした床を擦る音が、木下グループに掛かっていた状態異常を回復させる切っ掛けとなった。  ハッとして我を取り戻す事に成功した真綾。だが正面に立つ詩依良の顔を直視出来ないでいる。  もし直視したなら、再び状態異常に陥りそうだったからだ。  真綾は、視線を詩依良の右下へ向ける様にして話し出した。 「は……初めまして。わ……私は、き……木下真綾と言います。よ……宜しくね」  持てる勇気の全てを振り絞って、真綾は詩依良に挨拶した。  詩依良が真綾の挨拶に回答するまでのほんの僅かな時間が、クラス全員には永遠に感じられていた。  ゴクリッと誰かが息を飲む音が聞こえ、それを機に時間は動き出した。 「初めまして、一之宮詩依良です。宜しくお願いします、木下さん」  ウォーッ! と歓声でも聞こえてきそうな瞬間だった。  別に勝ち負けが決した訳でも無く、当然ボス戦に勝利した訳でも無い。  だがこの瞬間、クラス中の認識は全員一致していた。  木下真綾が勝ったのだ、と。  道なき道を切り開く者が勇者であり、その責務を真綾は見事果たしたのだ。  両脇で控えていた吉居美幸と石本佳奈も、それに続くかの如く動き出した。 「よ……吉居美幸です。よ……宜しく、一之宮さん」 「石本佳奈です。……宜しくお願いします」  二人はそれぞれ挨拶し、吉居美幸は小さく、石本佳奈は丁寧に頭を下げた。 「一之宮詩依良です。こちらこそ宜しくお願いします。吉居さん、石本さん」  詩依良も丁寧に挨拶し、頭を下げた。  こうして道は開かれたのだ。後はそれに続くだけだ。  木下グループの突貫に続けとばかりに、詩依良の前に座る女生徒が……その友達が……彼女の隣に座る男子生徒がそれぞれ挨拶を始めた。  その波紋はクラス中に広がって行き、いつしか詩依良の周囲には巨大な人だかりが出来上がっていたのだった。  我も我もと挨拶する生徒達に、詩依良はいちいち丁寧に返礼している。  普通に考えれば面倒ではないかと思われるその作業を、彼女は嫌な顔一つせず、面倒そうな雰囲気を一切纏う事も無く次々とこなしていった。  彼女と話せた生徒は頬を赤らめ高揚している。  彼等は恐らく、幸せな時間を噛みしめているに違いない。  そしてそれは、クラス全員が共有する認識だろう。  間違いなくこの瞬間、クラスの想いは一つになったのだ。  唯一人の少女を除いて。  武藤沙耶は、詩依良を中心に一つとなった集団を遠巻きに……色のない瞳で見つめていた。
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