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子供の頃母親に聞いたのだが、北海道には【リラ冷え】というご当地言葉があるらしい。 ── リラ(ライラック)の花が咲き始める5月頃に、急に何日も雨が続いて気温が下がる現象のことをいうのだそうだ。 本州と違い梅雨のない北海道で、春先とは思えない寒波が上陸した5月。 「あれ、おかしいな」 職場の従業員ロッカーの扉の前で、僕がはたと足を止めて首を傾げると、そう呟いた。 コンビニが夜10時で閉まってしまうほど、北海道の寂れた片田舎のリゾートホテル。 700室という中規模程度の、どこもかしこも老朽化した、このホテルが僕の職場だ。 入口金属扉の右手の壁には、15年ほど前に撤去されたアトラクション施設の遺物。 キタキツネを擬人化したキャラクター【クッキーくん】が、ロッカー使用の注意事項を説明しているポスターが惰性で貼られていて、うら寂しさを一層引き立てている。 「浦部主任、どうしたんスか?」 大学生みたいな黒いリュックを右肩にかけ、続いて出ようとしていたフロント部門部下の渡部くんが僕に聞いてくる。 「え? ああ、このメモさ。君かな?」 ほら、そこの傘立ての中の一本」 「んー? ああ、ホントだ。一本だけメモが貼られてるスね。きっと帰りが遅かったから、奥さんが届けに来たんじゃないですか?」 「嫁なら、こんな優しいことなんてしないよ。残念ながら」 僕が苦笑して、問題の傘を引き抜く。 結婚当初は可愛い後輩だった嫁だが、お互い50歳を過ぎた今では、自分も相手も仕事が忙しすぎてなかなか関わり合う余裕が無い。 何の変哲も無い、百円で売られてそうな透明なビニール傘。 浦部主任へ。 傘をお忘れのようでしたので、良ければ使ってください。 今夜は雷雨注意報が出ていると、先程ニュースで見ました。 お車とはいえ、数日は冷え込みが厳しいと言っておりましたので、お体にお気をつけて。 なお返却は結構ですので、傘はそのままお使い頂くか、ご不要でしたら処分して頂いて結構です。 相沢 紀香
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