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第1話「歯ブラシセット」
「谷村」
「ん、なんスか?」
「これ、忘れてたぞ」
見覚えのあるそれは、先週コンビニで買ったばかりの歯ブラシセットだった。
どうせまた使うのだからと、大して気にせずそのまま洗面所に置いていったのだが。
「自分のものはちゃんと持って帰れ」
苛立ちを隠さず言われ、谷村は仕方なくそれを受け取る。
歯ブラシセットが手から離れると、花戸は深い息を吐いた。
それは安堵がもたらした無意識のため息だったが、谷村はぎゅっと眉を寄せた。
「花戸さんさ、なにがそんなに怖いの?」
「怖い?」
「俺のこと名前で呼んでくれない。あっさり合鍵くれたのに私物は一切置かせてくれない。着替えも貸してくれない。脚は喜んで開くくせに、心の方で一線引かれてる気がすんだけど?」
谷村の声が明らかな怒気を含んでいて、花戸は怯んだ。
突き刺さる真っ直ぐな視線から逃げるように顔を背け、ぼそぼそと唇を動かす。
「谷村だって俺のこと名字で呼ぶだろ」
そもそもの出会いが会社の先輩後輩だったのだから、今さら変えろと言われてもすぐには難しい。
「私物は……別れた時の処分がめんどくさい」
「……はあ?」
「部屋着だって、見る度に着てるお前を思い出してちゃ気持ちの整理ができな……」
「待てよ。別れるってなに」
「今すぐってわけじゃ……」
「じゃあいつか俺と別れるつもりでいるわけ?」
谷村は、半ば呆れたように鼻から息を吐いた。
今度は花戸の眉間に皺が刻まれる。
「お前は若いんだ。あるだろ、将来のことと、かあっ!?」
「あんたさ、俺のこといくつだと思ってんの」
花戸の視界を、谷村が埋め尽くす。
「確かにあんたよりは年下だけど、子供じゃねえんだよ」
「んっ……」
「俺は、あんたとの将来しか考えてない」
「んっ……んっ……」
噛みつくような口付けから逃れようともがくと、手首を縫い付ける力が強くなった。
「直也……」
「んっ……ふっ……」
「直也……直也……」
「谷、村……っ」
「名前、呼んで」
「……」
「呼んで」
「……わ、渉」
「最高」
子供のように無邪気に笑った谷村は、花戸の薄い唇にキスの嵐を降らせた。
fin
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