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第2話「お見合い写真」
「はあ?見合い?」
ビールの泡を髭のように生やした口が歪んだ。
「部長の姪っ子さんだそうだ」
テーブルの上を、仰々しい写真台紙がスライドしてくる。
金色の筆記体で『Portrait』と刻まれた黒いそれを視界の端にとらえ、谷村はため息を吐いた。
「なんかやたら飲むと思ったらそういうこと……」
仕事帰りに飲みに立ち寄ること自体は珍しくないが、花戸の方から声をかけてきたのは初めてだった。
それに、普段は次の日の仕事を気にしてあまり飲まない花戸がハイペースで酒をあおっているのを不思議に思っていたが。
「はあ……なんであんたがそんな話を俺に持ってくるんスか」
「俺とお前の写真を見せたらお前を選んだらしい」
「いや、そういうことじゃなくて」
谷村は、新しく運ばれてきた焼酎を水のように流し込んでいる花戸を見た。
「前にも言ったと思うけど、俺はあんたとの将来しか考えてないの」
ほんのり紅色に染まった花戸の頬が、ピクリと痙攣した。
谷村はジョッキを空にすると、花戸に向き直り頬杖をつく。
「花戸さんさ、なにがそんなに不安なの?」
確かに好意を抱いたのは花戸の方が先だった。
だが谷村がそれに気づく頃には、仕事のできる先輩に対する憧れにすぎなかった気持ちは、すでに淡い恋心に変化していた。
だから思いを告げたのは谷村の方だったし、今はそれでよかったと思っている。
谷村が告白していなければ、きっとふたりは永遠にただの同僚のままだっただろう。
花戸が躊躇いながらも谷村の気持ちに応え、ふたりはそういう関係になった。
さすがに仕事中は今までどおりのふたりを演じているが、プライベートの時はイチャイチャしたりもする。
谷村は、自分のことを愛情表現の激しいタイプだとよく自覚していた。
これまで付き合った女性の中には、時にそれが重すぎると去っていった人もいたのに。
この年上の恋人は、いったいいつになったら自分を信じてくれるのだろうか。
「いつも、考えるんだ」
「何を?」
「俺が、谷村のチャンスを奪っているんじゃないだろうかって」
「チャンスってなん」
「幸せになるチャンス」
谷村の眉間に、深い溝が刻まれた。
手の中でもてあそんでいた花戸のグラスを奪い、ほとんど氷水になっていた焼酎を一気に飲み干す。
そして、勢いに任せてテーブルに叩きつけた。
「っ」
「花戸さん、今俺がなに考えてるかわかる?」
「……怒ってる」
「なんでだと思う?」
花戸が沈黙する。
やがて、乾いた唇がもそもそと動き始めた。
「いろんな将来を考えた方がいいに決まってる、だろ」
「……なんで?」
「お前が後悔しないため――」
「やめろよ」
花戸のか細い声を、谷村の硬く強い言葉が遮った。
「俺のため俺のためって……そうやって善意で言ってるフリして、自分から突き放すのが怖いからって甘えてんなよ」
真正面から鋭い視線で睨みつけられ、花戸の喉が鳴った。
切れ長な瞳がきらりと光るのが見え、谷村がハッと我に返る。
「あ……ごめん、言いすぎ――」
「いや、その通りだと思う」
花戸は、素早く瞬きした。
零れかけていた涙が、元来た道を戻っていく。
「谷村の言うとおりずるい言い方だった、悪かった。でも、お前に幸せになってほしいと思ってるのは本当なんだ」
ふたりの間を、静寂が包んだ。
居酒屋の喧騒が、まるで別世界で繰り広げられているように遠い。
谷村は、濡れた瞳でじっと自分を見つめてくる花戸からついを視線を逸らした。
「わかった」
「谷村……?」
「花戸さんがそこまで言うなら見合いでもなんでもする」
「え……」
「話はそれだけスか?」
「あ、ああ」
「じゃあ、お先に」
谷村は、あっけなく去っていた。背中を見送る暇もなかった。
「うっ……」
一度は堪えることに成功した涙が、今度は全然止まってくれない。
本当は、見合いの話なんて聞かなかったことにしたかった。
自分から部長にこっそり断ってしまえばいい。
その方が谷村も喜んでくれるだろう。
そう思って、そう思った自分に愕然とした。
自惚れている自分が、信じられなかった。
〝行かないで〟
花戸がひと言そう言えば、谷村は行かない。
そうわかっているから言えなかった。
自分の言葉が、気持ちが、谷村を縛り付ける。
それが怖くて仕方がなかった。
――甘えてんなよ。
谷村の言うおとおりだ。
怖いなら、自分から別れを告げてしまえいいのだ。
それも、できないなんて。
自分は所詮、その程度の覚悟もできないちっぽけな男なのだ。
花戸は、溢れ出てくる涙をそのまま流し続けた。
*
店を出る頃には、時計の長針がさらに一周していた。
紺色の空を見上げて、ぽつぽつと輝く星をひとつずつ追う。
瞼が重い。
頭が痛い。
心が寂しい。
鼻の奥がツンと痛んで、花戸は慌てて頭を振った。
今さらなにを考えているんだ。
谷村に告白される前に戻っただけじゃないか。
自分からこうなることを望んだんだ。よかったじゃないか。
そう言い聞かせながらも、花戸は未練を払拭できない。
共に過ごし共に笑い合い共に寝床を共にする喜びを知ってしまった今、自分ではないほかの誰かと笑い合う谷村を見て、純粋に祝福することができるのだろうか。
それでも、谷村が自分を選んで後悔されるよりは何倍もマシだ。
重い一歩を踏み出し歩き出そうとした時、右側からふと紫煙が漂ってきた。
その出所まで煙を遡り、花戸は息を呑んだ。
「谷村……?」
「ふー……遅いよ」
白い息を吐いて、谷村が煙草をもみ消す。
「なんで、いるんだよ」
「いるに決まってるでしょうが。それともなに?花戸さんは本気で俺に見合いさせたいわけ?」
違う。
その言葉の代わりに、しばらく止まっていた涙がまた溢れ出した。
それは大きな粒になり、次々と頬を伝って落ちていく。
「ああもう!あんた、ほんと酒入るとめんどくせえな」
酒入ってなくてもめんどくせえけど。
谷村が、そう言って苦笑した。
笑っている。谷村が、目の前で笑っている。
「谷、村」
「ん?」
「ごめん」
「あーね」
「ごめん……っ」
花戸は、ついに本格的に泣き始めてしまった。
子供のようにしゃくりあげる大の男を、谷村はそっと腕の中に閉じ込める。
「はいはい。で、本音は?」
「断ってほしい……っ」
「それから?」
「ずっと俺を好きでいてほしい……っ」
「それだけ?」
「俺だけを見ていてほし……んっ」
唇に噛み付かれた。
ジンと激しい痛みが走り、微かな鉄の味がする。
獣が獲物を貪るような激しい口づけの合間に傷ついたところを優しく舐められ、背中がゾクゾクした。
*
ラブホテルの硬いベッドが軋む。
「ん……あっ……」
「思うんだけどさ」
「んっ……」
「俺が花戸さんから離れられないのって、花戸さんのせいでもあるんスよね」
「は、ぅん……な、に……?」
「今まで付き合ったどの彼女よりずっとキレイな身体してるし」
「あっ、あ、あ……!」
「直也」
「っ」
「……って名前呼ぶだけで、めちゃくちゃ反応してくれるし」
「んっ、んんっ……!」
谷村は敏感なところにわざと狙いを定め、激しい抽送を繰り返した。
真っ赤に腫れたまぶたをぎゅっと合わせ、刺激に耐えきれない花戸が悶える。
「そ、そんなこと、言われたら……」
「ん?」
「ほんとに離れたくなった時に、離してやれなくなるっ」
「だからそれでいいんだって、もう……」
軽快に笑い、谷村が身体を折って花戸に覆いかぶさる。
触れるだけのキスを降り注ぐと、花戸の震える身体をそっと抱きしめ、囁いた。
「俺はあんたとの将来しか考えてないの」
fin
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