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第3話「赤い実はじけた」
窓から見えた空は、すでに白み始めていた。
今朝……いや、昨日の朝出勤するために家を出てから、もうすぐ二十四時間が過ぎる。
頭ははっきりしないし、瞼は鉛でもぶら下げられたかのように重い。
いつもなら軽快に上れるはずの階段も、今は果てしなく続く獣道のように険しい。
それでも谷村は、最後まで上りきり屋上へと続く重い扉を押し開けた。
「なんだ、帰らなかったのか」
金属が軋む音に反応して、花戸が振り返る。
見開かれた目は赤く充血し、着崩れたスーツが疲労感を滲ませていた。
「帰れるわけありませんよ。俺のミスなのに……」
「気にするなって言っただろ?お前の進捗を管理できてなかった俺が悪いんだ」
「だとしたら、ちゃんとマメに報告してなかった俺のせいです」
「それなら、話しかけやすい雰囲気を作れなかった俺の責任だな」
「花戸さんは話しやすいですよ!」
「っ」
「あ……すいません」
花戸は、ただ目を細めた。
「ちゃんと親御さんに連絡したか?」
「……しました」
「後日菓子折り持って謝りに……」
「そういうの要りませんから」
「そうか?」
「子供じゃあるまいし……」
そう言って唇を尖らせる谷村の姿は、あまりに説得力がない。
ふ、と花戸が笑った。
「お前は頑張ってるよ、谷村。一年目なんて失敗してなんぼだ。そのために俺がいるんだから、気にせず明日からもどんどん頑張れ……って、ああ、もう今日か」
ぽんぽん、と花戸の手が頭の上で優しく跳ねる。
慰められている。
励まされている。
それなのに、谷村は苛立ちを隠せなかった。
たった五年。
されど五年。
これじゃまるで、大人と子供だ。
やがてゆっくりと花戸の手が離れていき、暁の湿った空気を静寂が覆う。
谷村は、白い棒を咥えてもごもごと動く薄い唇に視線を落とした。
「花戸さん、煙草吸うんですね」
「いや?」
「じゃあそれはなんスか」
「飴ちゃん」
花戸が棒を引っ張ると、ビー玉のような赤い飴が飛び出してきた。
それを追いかける色移りした真っ赤な舌先が視界に入った瞬間、
パチン……!
目の奥で、なにかが弾けた。
「掃除のおばちゃんがくれたんだ」
端正な顔が、くしゃりと崩れる。
谷村は、ただその淡い笑みに見惚れた。
「あ、月が眠るな」
「え?」
「ほら、あそこ。月がほとんど透けてる」
花戸の視線の先を追いかけると、輪郭をほとんど失った反透明の月にたどり着いた。
どんどん明るさを増していく曙の空が、夜の住人を侵略していく。
「さて、腹が減った。コンビニ行くけど、谷村は?」
控えめな伸びをして、花戸は歩き始めた。
下界へと続く扉を引いて、だが潜らずに後ろを振り返る。
「谷村?」
「あ……俺も行きます」
並んで階段を下りながら、谷村は花戸の足元を盗み見た。
尖った茶色のつま先が、磨き上げられてピカピカと光っている。
対して自分は、就職活動の時に準備した黒いリクルートシューズのままだ。
……だめだ。
今はまだ言えない。
でも、いずれ必ず。
だから――
「母さん、俺、ひとり暮らしする」
fin
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