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第8話「花戸直也の衝動」
「明日、デートしましょ」
溶けかけたキャラメルのように甘い声で囁かれたのは、夢の世界に旅立つ直前だった。
頷いたのか首を振ったのかも分からないまま、今朝目が覚めた時には彼の気配はもうすっかり消えていた。
それでもスマートフォンに待ち合わせ場所と時間が送られてきていたから、無意識のうちに同意していたということなのだろう。
花戸は、空を見上げた。
そこには、幼い子どもがクレヨンを擦り減らしながら必死に塗り潰したような、隙間のない一面の水色が広がっている。
雲ひとつない青空だが、やはり夏のそれとはどこか違う。
太陽の光を浴びている間はぽかぽかと暖かいが、陰に入ると途端に空気が冷たくなった。
地面の明るい場所を追いかけながら、花戸は待ち合わせ場所の映画館へと足を進める。
デートなんて久しぶりだ。
油断するとすぐ緩みそうになる頰を、無理やり引き締める。
谷村がどんな理由で突然そんなことを言い出したのかは分からなかったが、花戸は嬉しかった。
最近はお互いに仕事が忙しくてなかなか休みが合わなかったし、合ったら合ったで疲れ果てていて外出する気なんて起きなかったし、なにより付き合いが長くなるにつれてどこかマンネリ化してきている気がしていた。
ふたりの関係が安定してきたと言えば聞こえはいいのだろうが、たまに会い、気力と体力が許す限り身体を重ね、それが無理な時はもそもそと食事をし、隣同士で眠る。
そんな日常に不満があるわけではなかったが、いざ『デート』に誘われたら、花戸はわくわくしてきた。
わくわくして、さらにうきうきまでして、その結果、約束の時間の三十分も前に映画館にたどり着いてしまった。
時間には遅れないタイプの谷村だが、さすがにまだいないだろう。
そう思い、肩の力を抜いてなんとなく視線をずらす……と、
――いた。
エントランス脇のポスター群の前に、谷村が立っていた。
だが、ひとりじゃない。
花戸の視線を遮るように、二人組の女性が立ちはだかっている。
彼らの表情は見えないが、雰囲気は穏やかで、時折上下に弾む華奢な後ろ姿が、会話の盛り上がり具合を如実に表現していた。
谷村はモテる。
決して濃くはないが整った顔立ちをしており、笑うとそれまで鋭かった目元が一気に蕩ける。
出会った頃はどこか頼りない印象もあったが、今では身体つきもがっちりとしてすっかり大人の男の風格を身につけていた。
加えて、生まれ持った才能なのだろうか、老若男女問わず誰とでもそつなく付き合える彼の性格は、取っつきにくい印象を抱かれがちな花戸にとっては憧れでもあった。
そんな谷村が、自分を好きだという。
なぜだろう。
これまで幾度となく問いかけては笑顔と、時には怒られながら一蹴されてきた疑問が、またふつふつと湧いてきた。
なぜ、谷村は自分なんかと付き合っているんだろうか?
「あ、花戸さん!」
遮られていた視線がふいに谷村まで届き、途端に満面の笑顔が弾けた。
不満を露わにする女性たちを物ともせず、軽快なリズムでこちらに向かってくる。
彼の視線がようやく自分に向けられて嬉しいのに、今すぐ自分も駆け出したくてたまらないのに、そんな心とは裏腹に、気がついたら花戸は踵を返していた。
「ちょっとちょっと! なんで逃げるの!」
だがあっという間に追いつかれ、手首を掴まれる。
振り返って見上げた谷村は、なぜだか怒っていた。
「見てたんなら颯爽と助けに入ってくださいよ!」
「え」
「せっかく花戸さんと久しぶりのデートだから『ごめん、待った?』『大丈夫、今来たところです』『嘘つけ、こんなに手、冷やして』『あ……』ってやつやりたくて無茶苦茶早く家出てきたのに、ソッコーで声かけられるわ、空気読んでくれないわ、邪魔だからあっち行けとも言えないわで、めちゃくちゃ困ってたんですけど!」
「えっ、あ、困ってた……のか?」
そんな風には見えなかった。
思わずそう漏らしそうになり、だが谷村の眉がギュッと寄ったのに気付き、なんとか呑み込んだ。
「ハァー……ま、いいけど。花戸さんも早いスね?」
「あ、ああ……なんとなく」
「張り切っちゃった?」
どこか不貞腐れていた谷村の表情が、ふわりと蕩けた。
それはまるで、絡み合っていた糸が解けるような優しさ。
ほかの誰にも見られない自分だけが知っている谷村の笑顔。
そのことが嬉しくて、うっかり涙が滲んでくるくらい感動しているのに、同時に言い様のない恐怖がふつふつと湧き上がってくる。
「た、谷村」
「ん?」
――やっぱり俺とは別れてくれ。
――お前には幸せになってほしい。
――俺なんかと一緒にいても未来なんて……
「直也」
「いっ……!」
「その頭の中でぐるぐる考えてること、万が一にでも口に出したりしたら怒るよ」
ギリギリと締め付けられた手首が痛い。
でもそれ以上に、さっきまでの笑顔が苦痛の表情に掻き消されている事実に胸が痛んだ。
「……ごめん」
空気が笑い、せっかく整えてきた髪がわしゃわしゃと掻き乱される。
「んじゃ、やり直し。はい」
「は……?」
「『ごめん、待った?』から、はい!」
「え、あ、ご、ごめん、待った……?」
「大丈夫、今来たところで――」
衝動だった。
人の目があるとか、そんなことは頭から吹っ飛んでいた。
チュッ……とほんの微かな音が耳を掠め、熱い吐息が肌に降り注ぐ。
「嘘つけ、こんなに唇……冷やして」
「……」
「……」
「………」
「………」
「ハッ……アアアアァァァ!」
居心地の悪い沈黙を破ったのは、谷村の雄叫びだった。
ビクッと強張った身体が抱き竦められる。
そして、息が詰まりそうなほど強く拘束された。
「た、たにむ……」
「ほんっとめんどくせえ!」
花戸は震えた。
谷村を怒らせてしまった。
自分からのキスなんて、やはり彼は望んでいなかったのだ。
「あ、ご、ごめ……」
「だめです。もうちょっとこのまま」
「え……?」
「今日は絶対ラブホじゃなくて映画行きたいんで、落ち着くまで動かないでください」
「お、落ち着くって……」
下半身に当たる硬い熱を感じ、花戸は固まった。
密着した身体から、服の厚みなんて無視して谷村の鼓動が直接伝わってくる。
それはどくんどくんと力強く、ものすごく速い。
花戸は、また泣きたくなった。
「……渉」
「へっ……」
「俺は別に、ラブホでも、いい……けど?」
髪を揺らしていた呼吸の波が止まった。
代わりに、どくどくのリズムが変わる。
そして、溶けすぎたキャラメルよりも甘い声が聞こえた。
「ほんと、めんどくせえ」
fin
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