第4話「煙草のにおい」

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第4話「煙草のにおい」

天井が違う。 それが最初の思考だった。 花戸(はなど)直也(なおや)は、二度、瞬きした。 目玉を左右に動かし、いつもは遠くにあるはずの床がすぐ側にあることに驚く。 どうやらここは布団の上らしい。 視界の端に、四角いテーブルが見える。 その上に乗ったでっぷりとした酒瓶といくつかのグラス。 空になった酒瓶には立派な筆文字で『泡盛』と書かれていた。 ああそうか。 昨日から社員旅行で沖縄に来ているんだ。 視覚的に得られた情報から記憶を呼び起こし、花戸は安堵する。 ゆっくりと身体を起こしかけ、 「いっ……!」 下半身を襲った鈍痛に喘ぎ、ぽすんと仰向けに戻った。 なんてことだ。 あれは夢じゃなかったのか。 昨日、この地で三年ぶりに谷村(たにむら)(わたる)と再会した。 花戸は、新入社員時代の谷村の教育係だった。 半年間の研修を終えて異動してしまってからは社内ですれ違うこともなく、昨夜風呂上がりの廊下で声をかけられた時は、一瞬誰だかわからなかったくらいだ。 新人時代の爽やかな面影を残しながらも、その立ち姿や振る舞いからは確かな自信が垣間見えた。 体格もより逞しく男らしくなり、向かい合う花戸が華奢に見えるほどだ。 「じゃあ、乾杯」 「乾杯」 ホテルのバーに立ち寄り、近況を報告し合いながらふたりでグラスを傾ける。 「あの、花戸さん?」 「ん?」 「さっきから俺のこと変な顔で見つめてますけど……なんスか?」 「ああ、悪い。なんだか嬉しくて」 「嬉しい?」 「すっかり一人前になったんだな」 花戸が目を細めて微笑むと、谷村は急に押し黙ってしまった。 その横顔は、薄暗い照明の下でも分かるくらいに火照っている。 沖縄の酒は強い。 花戸は眉尻を下げて谷村を覗き込んだ。 「俺の部屋で続きするか?」 「えっ」 「同室になる予定だった木崎……同期が体調崩して来てないから、ひとりなんだ」 〝続き〟はそういう意味じゃなかったのに。 「んっ……あっ……はぁ……」 部屋に入るなり不在の間に敷かれていた布団に押し倒され、唇を奪われた。 求められるままに舌を差し出し、必死に背中に縋り付く。 ふたりの唾液で潤った唇が、首筋から肩甲骨へ、肩甲骨から胸元へと南下していく。 途中で突起を揶揄うように舌で弄び、花戸の身体を跳ねさせた。 「花戸さん……やっと会えた……」 「な、にを……」 何を言っているんだ。 恍惚とした表情で見下ろされ、花戸は喉を鳴らす。 部署が変わったとは言え、階段をかけ登れば会える距離にいただろう。 谷村は戸惑い震える花戸の姿を瞳に閉じ込め、浴衣の割れ目に手を差し入れた。 「俺、早く花戸さんに認めて欲しくて……だからめちゃくちゃ仕事頑張ったんスよ」 「あ、あ!」 「早く対等になって、言いたかった」 なにを。 言葉が形にならないまま、甘い吐息になって出ていった。 熱の中心をゆるゆると揺らされて、花戸の(まなじり)が濡れてくる。 「好きです」 谷村がすごく大事な話をしている気がする。 ちゃんと聞きたいのに、後ろを襲った激しい異物感に意識を持っていかれた。 本来は排泄器官でしかないそこが、谷村の手によって性器に変えられていく。 「好きです、花戸さん」 「んっ……んんん、あぁっ!」 そのまま滾る欲望をほとんど無理やり挿入され、花戸は同時に与えられる苦痛と快楽に喘ぐことしかできなくなった。 そして結局告白に答えを返せないまま、こうして朝を迎えている。 花戸は、長い脚をもぞりと動かした。 身体が鉛のように重いし、下半身にはまだ違和感が残ったままだ。 いつ眠ってしまったのか覚えていないくらいなのに、花戸の肌はすっきりと拭かれ、ハイビスカス柄の浴衣もきっちりと着込んでいる。 部屋の端には、同じ浴衣がきちんと畳んでおいてあった。 自分の部屋に戻ったのだろうか。 「谷村……」 花戸は、布団の中から這い出した。 ずりずりと膝を畳に摩擦しながら移動し、浴衣を持ち上げる。 ただの一枚の布のはずなのに、やけに重く感じた。 ふわりと鼻孔をくすぐったのは、煙草のかおり。 いつの間に吸うようになったのか、谷村はポケットに小さな箱とライターを忍ばせるようになっていた。 身体に悪いからやめろと言ってやりたかったのに、煙を吐き出す姿があまりに扇情的で、花戸は見惚れてなにも言えなかった。 出会った当初は、今時珍しいくらい素直な若者だな、なんてオヤジくさい目線でしか見ていなかったのに、いつのまにかそれが、かわいい、に変わった。 会えなくなってからは、半年の間に自分に向けられた笑顔の数を数えては胸が締め付けられていた。 だから昨夜のしかかってくる谷村の身体の重みを受け止めた時、嬉しくてどうにかなりそうだった。 泡盛の副作用だ、なんて言い訳にすらならない。 跳ね除けようとすればできたはずの谷村の手を受け入れ、蹴り倒そうとすればできたはずの谷村の身体を求めたのは自分なのだ。 今こうして谷村の残り香を、肺いっぱいに吸い込んでいるのも―― 「なに、やってんの?」 「うわあ!」 ベランダから谷村がひょいと顔を出したことにも驚いたが、その引き締まった身体が一糸纏わぬ姿なのにも花戸は慄いた。 「は、裸でなにを……」 「煙草吸ってた。部屋の中だと花戸さん、嫌がるかなって思って」 「や、そもそもここは全室禁煙……」 いや、そんなことはどうでもいい。 「早く服……」 「今さらなんスか。昨夜散々見たでしょ?」 「み、見てない!」 ひどい嘘だ。 そう分かっていて、でもなぜだか肯定してはいけない気がして花戸は激しく首を振る。 谷村はさして気にもせずに、花戸が腕の中に抱きしめている紺色の塊を見下ろした。 「それ、俺が着てた浴衣」 「あ……」 「それでなにするつもりだったんスか?」 「なに、って……」 谷村の顔に、じわあっと笑みが浮かび上がる。 それは、決してニコニコとは言えない類のいやらしい笑み。 「あ!?いや、ち、違う!」 「違うってなにが?」 全裸の谷村が、ゆっくりと花戸に迫ってくる。 必死に逃げようとするが、重い腰がまともに言うことを聞いてくれず花戸はあっという間に壁際に追い詰められた。 ひゅっと息を吸うと、灰色の香りが一緒についてくる。 「煙草のにおい……」 「あ、やっぱ気になる?」 「さっき、谷村のにおい、嗅いでた。覚えて……おきたくて」 「はあ?」 谷村の眉根が寄った。 「覚えておくってなんで?まさか、昨夜のことはなかったことにしよう、とか言い出すつもりスか」 「だってその方が……」 「だめ」 「でも……」 「だめっスよ、そんなの」 「谷村……」 「やっと会えたのに、そんなのだめ」 谷村が、花戸を頭ごときつく抱きしめた。 押し返そうとすると、すぐにその倍の力でやりこめられる。 どうしたものか、と思案していると、さらにぎゅうぎゅうと締め付けられた。 まるで、お気に入りのおもちゃを譲らないと駄々を捏ねる子供のようだ。 花戸は、くつくつと喉を鳴らした。 「まいったな……」 「え?」 「なかったことにしたくなくなってきた」 谷村はくしゃりと破顔し、唇を尖らせて口づけを強請(ねだ)った。 fin
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