傷つかずに生きられない俺らは今日も笑う

2/5
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 自宅の玄関ドアを開けると、ダイニングから出てきた妹のえみと鉢合わせした。 「ただいま」  そうあいさつしても、えみは暗い目でちらっと俺を見ると無言で階段を上っていった。  思わずため息が漏れる。  ホテル公演の仕事は、ステージの上だけじゃない。客が食事しているレストランや宴会場に出向いて営業することも、大事な仕事だ。  二人で笑顔を貼り付け、明日も見てくださいとか、応援よろしくお願いしますとか、愛想を振りまく。すぐに捨てられると分かっているチラシを撒く。求められればサインや写真撮影に応じ、雰囲気的に仕方なければ給仕や酌もする。  ホテルの従業員も俺たちにとっては客だから、休憩室で賄いの夕食を食べている間もなんとか笑いを取ろうと、必死でタイミングを計る。  顔面神経痛になりそうな笑顔での勤務時間が終わり、自宅に戻る自分はもうボロ雑巾と変わらない。  そんな時に暗い顔の妹と鉢合わせした俺は、暗澹たる気持ちになった。  大学卒業後、俺が入った会社はいわゆるブラック企業だった。  帰宅はいつも終電。土日もまともに休めず、休めても疲労回復だけで1日が終わる。  過労で朦朧とする俺を、女子社員たちの賛辞が甘い毒のように(むしば)んだ。 「栗田君て、すごくおもしろいよね」 「こんな会社辞めて、芸人になればいいのに」 「そしたら私たち、ファン第1号だね」  そんなふうにおだてられて調子に乗った俺は、1年で会社を辞めてしまった。 「俺、芸人になります」  ドヤ顔で辞表を出し、清々(せいせい)していられたのはほんの短い間だけだ。  俺を持ち上げた彼女たちだって、金を払ってまで公演を見に来るわけでもない。付き合いで見に来てくれたのは1回だけ。次の公演の案内を送ったメールには、誰からも返信がなかった。  別に恨み言を言うつもりはない。  自分で決めたことだ。  俺が脱サラして芸人になると告げた時、両親は反対しなかった。  社畜と化し表情筋の死んだような俺が、芸人になって笑顔で過ごせるならそれもいいと言ってくれた。  でも、現実はそんなに甘くない。  笑顔なんて、「なる」ものから「貼り付ける」ものに変わってしまった。仕事以外の時間が無表情になったのは、あの頃よりむしろ酷い。  顔を合わせると、疲れた笑顔で接してくる母親。  脛かじりに戻った長男を見ないようにして、毎日規則正しく出勤する定年間近の父親。  そして、心を病んで引きこもりになった妹。  実家の居心地がいいわけじゃない。  この2年で、貯金は底をついた。とても自活できる給料ではない、それだけのことだ。  同じ給料をもらう吉澤は、古いアパートで一人暮らしをしている。カリスマ美容師になると宣言して飛び出した手前、実家には一生戻れないと以前は笑っていたけれど。  家賃の一部を負担してほしい、そう言われたのは先週のことだ。  この部屋はネタ合わせや練習にも使っているんだからと、ふてくされたような顔で吉澤は言った。  その言い分も、分からなくはない。  でも、俺だって好きで実家暮らしなわけじゃない。 「ここを練習に使うのが不満なら、俺は公園でやったっていいけど」  そう言うと、吉澤は黙った。ケンカになったわけではないが、それ以来俺たちの間には、ギクシャクした雰囲気が残ってしまった。  相方の機嫌が悪くても、仕事はできる。やりづらいことは確かだが、だからといって家賃を負担するほどお人好しでもない。  俺は冷蔵庫からビールを取り出し、ダイニングチェアに腰を下ろした。スマホをテーブルに立て、保存してある動画を再生する。  お笑い番組特有の、派手な色使いのデジタル幕が映った。 「爆笑の渦に呑まれろ!『スパイラル!』」  ナレーションが、スターの登場を高らかに予告する。  幕が開き、走り出てきたスーツの二人は、キャッチフレーズどおりに爆笑を巻き起こした。会場の笑い声が、夜中のダイニングに響く。  何度見たかわからない、憧れのコンビだ。 「スパイラル」の漫才で、俺はもう笑えない。飽きたわけじゃない。刺激されるからだ。  間の取り方、表情、観客を巻き込む、魔力。  いつか彼らと同じステージに立つのが夢だった。でも、それはもう叶わない。  スパイラルのボケ担当だった鞠男(まりお)が、人気絶頂のさなかに、飲酒運転で人身事故を起こしたからだ。  相方の累士(るいじ)は、しばらく一人(ピン)でバラエティ番組に出演していたが、最近はすっかり見なくなった。  芸人は、暗いイメージが付いたら終わりだ。その顔を見て、被害者の少女の写真が脳裏に浮かんでしまうと、人は笑えない。  事故を起こしたのは累士ではないのに、コンビは一蓮托生だ。  あんなに面白かったスパイラルだって、もうテレビで見ることはできない。新しい芸人はどんどん生まれ、ヒットを飛ばしても一発屋と蔑まれてすぐに忘れ去られる。  過酷な世界だ。  俺は画面をスワイプし、別の動画をタップした。  スマホの液晶に映っているのは、中学生のえみだ。生き生きと表情を変えて踊っている。  ビールを飲みながら、俺は連続再生される短い動画を眺めた。  新作が見られないのは、スパイラルと一緒だ。  3年前、当時人気があった動画配信サイトで、妹はファンが3万人もついた人気者だった。短い動画を投稿するたびに、送られる「いいね」はすぐに1万を超え、かわいいともてはやされた。  そんなえみを撃ち落としたのは、たった一言のコメントだった。 勘違いドブス 加工前の顔www  実際、その動画投稿サイトにアップしていたのは加工した映像だ。実物のえみより、目は少し大きく、肌は白くなっている。でも多少の加工はその世界では当たり前で、実物のえみだって充分かわいい。  それでもその日から、えみは少しずつ病んでしまった。  3万人にかわいいと言われても、たった1人に悪意をぶつけられただけで、人の心は簡単に壊れる。  アンチした相手が同じ学校にいるという噂に、えみは間もなく高校に行けなくなった。  その頃、社畜だった俺は家にいる時間は寝てばかりいて、妹の事情を知ったのは年が明けてからだ。  歳の離れた小さな妹は、兄バカと言われても、ずっと俺の自慢だったのに。  俺がえみを、笑わせてやる。  不遜にも、そう思った。  俺は子どもの頃から爆笑王だった。養成所で基本を教えてもらえば、きっとすぐに売れる。  そんな子どもじみた考えに取り憑かれて安易に会社を辞めてしまうほど、当時の俺はまともにモノが考えられない状態だったんだと思う。  スパイラルに憧れて、彼らの所属事務所がやっている養成所に入所したのが一昨年の春。1年の間に、同期は半分以下に減った。半端な覚悟では生き残れない。戻る所のあるやつから消えていった。  美容師の資格を持つ吉澤は、芸人をやめても潰しがきく。家賃を滞納しているという相方がいつかやめると言い出すんじゃないか、俺は密かに恐れていた。  そして、それは杞憂で終わってはくれなかった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!