傷つかずに生きられない俺らは今日も笑う

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「なかなかいいこと言ったじゃねぇか、栗田」  突然そんな言葉をかけられて、俺は驚いた。  振り返ると、少し離れた壁にもたれて、あの男が立っていた。サングラスに野球帽。小太りの男は、とっさに身構えた俺を鼻で笑った。 「まぁそんなに警戒すんな。怪しいもんじゃねぇ」  いや充分怪しいだろ、そう思ったのに、俺はサングラスを外した男の顔に目が釘付けになった。 「累士……?」 「先輩を呼び捨てかよ」  男は、くっと笑った。片頬だけを上げる、ちょっとニヒルな笑い。顔にも肉がついて、まるで別人のように太っているが、目の前にいるのは間違いなく、スパイラルの累士だった。 「まぁ、しゃあねえか。お前らにとっちゃ俺なんか化石だしな」  そんなことないです、俺はスパイラルに憧れて、この世界に入ったんです! そう言えればよかったのに、俺の脳はまだ突然の事態についていけず、ただ黙って目の前の男を凝視していた。 「爆笑ハザードって……ダセェ名前つけたなぁ。よっぽど事務所に期待されてないんだな、お前ら」 「控えめに言って大きなお世話です」 「言うじゃねぇか。ま、そんくらいじゃなきゃ生き残れねぇ」  累士は片頬を上げた不敵な笑顔から、真顔になって俺を真っ直ぐに見た。 「お前ら、事務所辞めて俺についてこねぇか?」 「どういう……意味ですか?」 「そのまんまだよ。わかってると思うけど、俺はスパイラルの累士だ。相方は服役中。俺は干されて、今はまぁ、ニートだ。今はな。でも、近々事務所を立ち上げようと思ってる。自分が返り咲こうなんて夢はもうねぇけど、俺はこの半年、これはと思ったやつらにトマトぶつけて回ってんだ。そんくらいのアクシデントでポシャるヤツはいらねぇからな」  迷惑なマーキングもあったものだ。俺は呆れたが、累士に目をつけられたのだという喜びが、快感になって体を走り抜けた。 「お前らがまた出るってんで、今日は見にきたんだよ。俺が座ってんの見ても、まぁちゃんとやれたじゃねぇか。出待ちして声かけようと思ってたのに、まさかの別れ話が始まったのには参ったけどな」  コンビ解消の危機を、楽しそうに累士は笑った。 「ご覧の通り、俺はたった今から一人(ピン)ですよ」  皮肉を込めて言うと、累士は片頬を釣り上げた。 「誰だってあるだろ、へこんでネガティブになることくらい。相方のスランプくらい、笑わせてやれねえで何が芸人だよ」  累士は懐から名刺と1万円札を2枚取り出し、俺に握らせた。 「二人で焼肉でも食って、これからのこと、ちゃんと話し合え」 「こんなに……」 「腐っても事務所の先輩だ。才能ある若手の世話をするのも仕事のうちだから、まぁもらっとけ」 「ありがとう、ございます」 「詳しい話聞く気がありゃあ、そこに連絡くれや。でも言っとくけど、将来の保証なんてしてやれねぇからな」 「それは、わかってます」  そんな保証されたら、かえって怪しい。 「でもあいつが、芸人続けるって言うかどうか……」 「見込んだ相方なんだろ? 明日にでも迎えに行ってやれよ。壁の向こうじゃあるまいし」  そう言われて、ハッとした。  累士は鼻からため息をつくと、独り言のように呟いた。 「俺ぁ待ってんだよ、鞠男(あいつ)と一緒に、また夢追っかけられんのをよ。そのための事務所作りでもあるんだ。帰って来る場所を、作っといてやりてぇんだよ」  ずっと憧れていた人は、照れたように笑いながら、星のない夜空を見上げた。
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