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「どぉもこんにちは!」
「爆笑ハザードと申しますぅ」
1台のマイクの前に走り出て、お約束のあいさつと笑顔で客を引きつける。パラパラと起こる拍手の間に、俺はざっと客席を確認した。
天然温泉を備えたホテルの演芸場で、最大収容人数は200人。でも、今日の客の入りは、30人足らずだ。
「突然やけど栗田君、最近だいぶあったかくなってきたやん?」
「あーまぁ、そうね」
「だからな、そろそろ怪談が美味しい時期やと思うねんな?」
「階段は何段目が美味しいの? とかワクワクして待ってんのがビンビン伝わってくるから、そこはあえてスルーしとくな?」
「ナイス下衆!」
最初のツッコミに、小さな笑い声があがる。
この1年で何度もやったネタだ。季節によってバリエーションがあるが、セリフが飛ぶなんてことはない。
相方の吉澤は、軽快な関西弁で順調に小さなボケを飛ばしていく。
「暗くなってもぉて、迷い込んだぼろ家で、旅人はおばあさんにもてなされるんやけどなぁ、そのおばあさんが出してくれた味噌汁が…… 」
「味噌汁が?」
「むちゃくちゃ美味しかってん!」
「怪談じゃねぇのかよ!」
「おぅふっ!」
手刀でのツッコミに、吉澤の金髪が揺れた。
大丈夫だ、ちゃんとやれてる。ギクシャクしていることも、芸には影響していない。
そのことに、ホッとした。
「お先に失礼しまぁす」
二人で従業員通用口を出ると、吉澤は小さく「お疲れ」と言って、足早に駅へと歩き去った。
同じ駅を使うのに。
それは吉澤だって分かってることだ。要は、俺と話しながら歩きたい気分じゃないのだろう。
俺はため息を吐くと、相方の金髪が少し離れるのを待ってから、わざとゆっくり歩き始めた。
吉澤と俺は、結成1年の漫才コンビだ。
元美容師の吉澤と脱サラした俺は、揃って25歳。
関西弁のボケと東京弁のツッコミのコンビは珍しがられ、事務所の広報誌でも異色新人として紹介された。
とはいえまだ大きな劇場には立たせてもらえず、全国のデパートや商店街イベントでの営業が、俺たち爆笑ハザードの主な仕事だ。
今日のホテルはうちの事務所と専属契約を結んでいて、若手による漫才ショーが毎週土日に行われる。俺たちに順番が回ってきたのは2回目だ。
ここでの公演が決まった時、横目で覗き見た吉澤の顔は不安そうに歪んでいた。
無理もない。
3ヶ月前、吉澤はこの劇場で、最前列の客にトマトを投げつけられたのだ。
つまんねぇとか引っ込めとか、言われたわけじゃない。サングラスの男は、潰れたトマトまみれになった吉澤にニヤリと笑い、黙って席を立った。
俺たちはアドリブで切り抜けることもネタを続けることもできず、ただ呆然と立ち尽くした。気を利かせた演芸場のスタッフが幕を下ろし、その日の公演は中止。
ステージを汚したトマトはきれいに片付けられたけれど、赤いしみは吉澤のメンタルに深く残り、消えないトラウマになった。
事件以来、吉澤はステージに出るとまず、客席にあの男がいないことを確認するようになった。それがどんな片田舎の商店街でも、そうしないとしゃべれない。
この3ヶ月間、ずっとだ。
そんな吉澤が、今日の公演に極度の緊張を強いられたことは間違いない。
俺だって、思わず最前列の顔ぶれをざっと見てしまった。
あの男はいなかった。
同じ演芸場だからと言って、同じ客が来ていることなどまずない。俺たちにはまだ追っかけてくれるファンなどいないし、お笑い好きがわざわざ足を運ぶような劇場でもないのだから。
明日の公演を無事に乗り切れば、吉澤のトラウマも少しはマシになるだろう。
俺はそう思いながら、疲れた身体を引きずるように夜道を一人歩いた。
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