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夏休みになった最初の日、ボクはお母さんとサイクリングに行くことになりました。でも、自転車用のヘルメットが一つしかなくて、それをボクがかぶって、お母さんは工事用の安全ヘルメットをかぶりました。
30分ほど走ると、海が見えてきました。ボクたちはそこで一休みすることにしました。
この浜辺には、夏だというのに人が一人もいません。強くふく風の音が、寂しさとを際立たせています。
ボクは手を洗おうと海水に触れてみました。水は恐ろしいほどに冷たく、ボクはこの海に人のいない理由がわかった気がしました。
ボクが振り返って、お母さんの方を見ると、後ろの岩場で何か人間ぐらいの大きさのものが、すばやく動いて陰に隠れるのが見えました。ボクは恐くなって、
「お母さん、もう行こうよ。早くこの浜辺から離れようよ」
と言ったけど、お母さんは、
「大丈夫よ。この辺に人に危害を加えるような、獰猛な生き物はいないから、きっとシカか何かよ。ウフフフ」
と言って、ドンドン岩場に近づいて行きました。
「やめてよ、お母さん。そっちに行かないでよ。危ないから。――ボクいい子にするから。お願いだから、戻ってきてよ」
と叫んでも、お母さんは「ウフフフ」と笑いながら、ドンドン、ドンドン岩場に向かっていきます。
ボクは、もうダメだ。お母さんの姿を見るのはコレが最後だ。優しくて、強くて、素早く動いて、頭がよく、笑うと歯ぐきが見えて、ソロバン三級、英検一級、なわとび名人、そして脇毛がボウボウのお母さんと、もう二度と会えないんだ。と思った。
次の瞬間。岩場の陰から、今まで見たことのない様な髪型をした中年男性が飛び出してきた。
ボクが呆気にとられ、身動きできずにいると、中年男性はイナズマのようなスピードで、ボクとお母さんの間を駆けぬけて行きました。
ボクが口をあけたまま、遠ざかっていく中年男性の後姿を見つめていると、お母さんが出し抜けに、
「あの人ったら、まだあの髪型続けていたのね……」
と、言いました。
ボクらは、再び走り始めました。ボクは坂道が好きです。助走をつけて、スピードを殺さぬように一気に上り、坂の上に着いたときの達成感と征服感は平坦な道をいくら走っても得られないものだと思います。
上り坂をのぼりきって、しばらく走ると、今度は下り坂に出ました。ボクは坂道は、上りも下りも両方好きです。下り坂は、漕がなくても自転車がグングン加速し、風が体を包む感覚がとても好きです。
坂道をくだりながら、ボクはとても幸せな気持ちになりました。ボクが乗っている自転車は、半年前、サイクルショップ『マイティー・ジョー』で購入した物です。マイティー・ジョーは、小さな店ですが、店主の川原さんは、元自転車競技の選手で、オリンピックの代表選考が懸かった大切な試合で、落車して、「イタイよ~」と泣いてしまった程の人物だ。
そんな川原さんの組み立てたボクの自転車は、坂を下っている途中でブレーキが壊れた。
(このままでは、坂の下にある木造平屋建ての家の塀に激突してしまう)とボクは焦りました。
(大変だ。どうしよう。どうしよう。もうダメだ、死んでしまう)
死んでしまう、というフレーズでボクは昨年死んだ、おじいちゃんの事を思いだしました。おじいちゃんは死ぬ間際に、家族一人一人にメッセージを残し、ボクには、「しょうへい。ピンチがチャンス」と言い、親指をグッと突き立てウインクしました。
「ピンチがチャンス」その言葉をつぶやくと、まるで魔法のように急に勇気が湧いてきました。
(こんな所で、あきらめちゃダメだ。何としてでも助かってやる!)
そう思ったのもつかの間で、結局なんとも出来ずにボクは猛スピードで塀に激突しました。その衝撃でボクは自転車から、空中たかくに投げ出されました。
すると、周りの動きがスローモーションになり、音も小さく、遠くのほうで鳴っているように聞こえる状態になりました。
空中で体が回転したときに、ボクの後から坂道を下ってくる、お母さんの姿が見えました。お母さんは高く舞うボクの姿を見て、なんと大爆笑していました。普段は「ウフフフ」と、しか笑わないお母さんが爆笑していたのです。
ボクはビックリしましたが、お母さんの笑っている姿を見ると、だんだんとおかしくなってきて、ボクも少し笑いました。最初少し笑うと、なぜだかもっとおかしくなってきて、その内にボクも大爆笑しました。
ボクは笑いながら、老夫婦の家の屋根に墜落して、その瞬間、大きな衝突音に混ざって、自分の肩が外れる音がきこえました。
築45年のこの家は、かなり老朽化していて、ボクがぶつかった部分は瓦も骨組みもすっかり砕けて、
破片がいくつか体に刺さりました。ボクは屋根を突き破り、瓦礫と共に居間に置いてあるテーブルの上に落ちました。
後日きいた話では、この日、お爺さんは芝刈りに、お婆さんはブック・オフにシャ乱QのCDを買いに行っていたので、家には誰もいませんでした。
気がつくと、体のアッチコッチが痛くて、口の中は血の味がしました。意識がだんだん遠くなるなか、(ボクはもう死ぬのかな~)と思いながら、屋根にポッカリと空いた穴からキレイな青空を眺めていると、玄関の扉をドンドンと叩く音がして、そのすぐ後に、バカ笑いが聞こえてきました。お母さんの笑い声はエスカレートしていて、ひきつけの様になっていたのでボクは、このまま笑い続けたらお母さんは気がヘンになってしまうんじゃないかと心配しました。
ボクの心配をよそに、お母さんは笑い続け、その声はもはや人間の笑い声ではなく、発情したマントヒヒの雄たけびのようになっていたので、ボクも再びつられて笑い出しました。笑うと体中の骨がイタんで、口の中の血の味がさらに濃くなりました。
その内にボクは、笑いながら気を失いました。
ボクは全治6ヶ月の大怪我で、全身を包帯でグルグル巻きにされ、首にはムチウチのアレを付けられたけど、さいわいヘルメットをちゃんと着用していたおかげで、頭部へのダメージは少なく、後遺症などの心配は無いそうです。
老夫婦の家が老朽化していたので、ぶつかった部分が大げさに砕け、かえってそれが衝撃を吸収したそうです。
お母さんは、ボクが意識を取り戻した時には、元の落ち着いたお母さんに戻っていて、大爆笑していたときの事を、家族に話しても信じてもらえませんでした。
数日後に、ぶつかった家の老夫婦がお見舞いに来てくれて、お爺さんは、きびだんごを、お婆さんはオロナミンCを持ってきてくれました。
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