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夜中に、マンホールから地上に現れるその鯨を、僕はマンホールクジラと呼ぶことにした。
夜眠れないというのは、なかなかに辛い。
僕は母子家庭の母親から、「丑三つ時になるとお化けが出るから、早く寝なさい」と小さい頃から言い聞かされていた。
親の心子知らずというのか、それを聞いた僕は、お化けから母親を守らなくてはならないという使命感に突き動かされ、午前二時半までは何としても起きているという妙な癖がついてしまった。
それが中学二年生になった今ではほぼ不眠症として根付いてしまい、二時半まではまるで眠れず、三時頃にようやくうとうとしだす、という体質になった。
ある初夏の夜のことだ。
五月の末、僕は午前二時半を迎え、今日もようやく眠れるなと思いながら、ふと外の空気を吸いたくなって窓を開けた。
うちの二階建てアパートのすぐ目の前の道路には、マンホールがある。
その蓋がいきなり開いた。かと思うと、その中から真っ白な、小ぶりな鯨がぬうっと現れた。頭からしっぽまですっかり抜け出ると、マンホールの蓋は元通りに閉まった。
鯨は、夜の空気の中を泳ぐように、アパートの屋根近くまで宙に踊ると、放物線を描いて地面へ向かう。見えない虹の上を滑るようなきれいな弧を描く鯨の、その皮膚が月の光を真っ白く反射していた。
その先には別のマンホールがあった。鯨は器用に鼻先で蓋を開けると、穴の中に入り込んでいく。
不思議なことに、小ぶりとはいえ大きめのイルカくらいのサイズはあるだろうその鯨が、するするとマンホールに吸い込まれてしまった。二つ目のマンホールの蓋も、ぱたりと元通りに閉じる。
そして鯨は、数十メートル離れた更に先のマンホールから現れ、向こうの方へ夜の空を泳ぎ去っていった。
僕はそれを、呆気に取られながら見ていた。
窓を閉め、布団に潜り込む。
見てしまった。
何年ぶりかに、また、見てしまった。もう二度とあんなふうなものを見ることはないと思っていたのに。
今日のは、仮にマンホールクジラと呼ぶことにしよう。
幼い頃に見たあれらと、区別するために。
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