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■  マンホールクジラを初めて見たあの日から、一週間が経った。  今まで僕が気づかなかっただけなのか、マンホールクジラは毎晩三時前になると、決まってうちの近所に現れた。  最初の頃こそその優雅な泳ぎ姿に感嘆していただけだったが、数日も経つと、鯨の泳ぎ方が妙に気になった。  僕の住む町は西に山、東に海を湛えている。鯨は海の方へ向かおうとしているようなのだが、その泳ぎ方には、どことなく迷いのようなものが感じられた。  去っていく鯨の動きを追っていると、日々、うちの少し先でから様々なルート分岐を試し始め、途中で断念したようにまごつき、三時を少し回るとその姿を消してしまう。  あの鯨は、海へ帰ろうとしているのだろうか。ひとりぼっちで、この固く暗い地面の間を跳ねながら。  僕は、いてもたってもいられない気分になってきた。  金曜日の夜――というか朝というか――、僕は思い切って午前一時にアパートを抜け出した。  うちの前のマンホールで鯨を待つこと、午前二時三十分。マンホールの蓋が開いた。中から鯨が顔を出してくる。  そして、すぐ脇に歩み出た僕を見て、驚くようにその目が見開かれた。 「言葉が分かる? ここ数日、僕は君を見ていた。もし君が海へ出たいなら、協力したいんだ」  鯨は動きを止めずに空へ泳ぎ出す。僕は次のマンホールへと走り、落下してきた鯨に早口で告げた。 「今日は驚かせてごめん。明日、また来る」  鯨は地中へ消え、そしてまた海の方へ向かって跳ねていく。  僕はそれを見届けてから、部屋に戻った。  部屋の窓から東を見ると、僕の家からは海はやや遠くて、町の向こうにはただ暗闇だけが広がっている。昼間でも水平線などは見えない。  振り返って、西の方を見る。棚田を抱えた山々が、星空を黒く切り取っていた。  翌日の土曜は登校日だった。  授業を終え、下校しようとしたら、驚くべきことに、沈丁花から声をかけられた。 「少し話があるの」  はあ、と間の抜けた返事しかできない僕を、沈丁花は校舎裏へと連れて行った。ここにはほとんど人が来ない。 「どう協力してくれるの?」 「え?」 「あの鯨、私なの。確かに、海に出たいのよ。というより、もっと広い場所を泳ぎたいの。マンホールなんて、……もう嫌だから」  僕たちは場所を移して、更に人気のない近くの公園で話した。 「どうして鯨に変身できるかと言われれば、できるからとしか言えないんだけど。でも変身ができるのは、真夜中の間だけなの。せいぜい一時間ちょっとかしら。初めて変身したのは今年の春で、それは驚いたわ」  あまり驚いた感じが伝わって来ない淡々とした口調で、沈丁花が語る。 「誰が決めたか分からないけど、午前三時までは夜なのね。そこから先は朝。だから最も夜が深くなる三時前が、私が一番自由に泳げる時間。三時を過ぎると鯨の私は段々体の自由が利かなくなって、やがて人間の姿に戻ってしまう。そういえば今まで鯨の姿で人の傍を通っても見とがめられたことはないんだけど、神谷くんは私が見えたのよね。同族なのかしら。鯨にはなれないの?」 「あ、うん。僕は見えるだけ。体質なのかもしれない。昔、同じようなものを見たことがあって」  混乱していなかったわけではないのだが、それでも僕は、努めて冷静に質問に答えた。 「私はある程度の水があれば、それを渡って泳ぐことはできるわ。でも、狭い地下も下水も、もう飽き飽き。同族はいるはずなのよ、気配というか、かすかに声が聞こえることがあるの。だから、海へ、何度も向かおうとした。でもどんな経路をたどっても、途中で水が枯れていたり、水量が少なすぎたりして、下水や池を渡って行くのは限界があって。……もしかして全部気のせいで、鯨になれる人類は、もう私一人なのかしら」 「そんなことは、ないと思うよ」 「どうしてそう思うの? ……というより、今の私の話を全部信じてくれるの?」 「信じるよ」 「なぜ?」 「そうだな。今晩、言うよ」
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