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■  午前二時。  沈丁花は、僕が彼女の家の前に迎えに行くと、約束通りに現れた。人間の姿で、黒いTシャツに、ジャージ生地らしいズボンをはいている。私服姿は初めて見るかもしれない。 「明日――もう今日だけど、日曜日でよかったわ」  二人でそれぞれの自転車にまたがり、走り出す。 「ところで沈丁花の方こそ、こんな真夜中に呼び出す男子をよく信じてくれたと思うんだけど」 「それは信じるでしょう。私のことを誰にも言いふらさないで、それどころか協力を申し出てくれる人だもの。それに、クラスで私が孤立しているのを心配してくれているみたいだし」  そう直接的に言われると、思わず耳が熱くなる。 「ひ、人に言ったって信じてもらえるとは思わないからっていうのもあるよ」 「それでも、言う人と言わない人には天地の差があるわ。感謝してる」  ハンドルを握る手が熱くなった。汗をかいて、慌てて握り直す。 「ところで、私の質問に答えてくれる? どうして私を信じてくれたの?」 「それこそ、信じるに決まってる。小学校の時、教室の隅で僕が何人かにいじめられ出した時があっただろう? 教科書に落書きされて、集団でズボンを脱がされて、これは遊びだぞ、先生に言うなよって言われて。その時、通りがかった沈丁花が言ってくれたんだ。『そういうのは、やる方がみじめじゃない? よくないと思うわ』って」  下卑た笑みを浮かべて僕を取り囲んでいた連中が、急に卑屈に取り繕った表情を浮かべ、「何言ってんだよ、沈丁花わけ分かんねえ」とばらばらと解散していった、あの時。  あれは間違いなく、長く苦しい、下手をすれば一生もののトラウマを植え付けられかねない子供時代の始まりだった。 その分岐点を切り替え、救ってくれたのが、沈丁花だった。 「あの時は本当にありがとうって、ずっと言えなかったけど。その、話しかけるのもなんだか申し訳なかったし」 「申し訳ない?」 「自己評価の低い男子は、そういうことがあるんだよ。でも本当に僕こそ感謝してる。沈丁花もそんなにクラスで友達が多い方じゃないっていうか――ごめん――、下手すれば自分が危ない目に合うかもしれなかったのに」 「そう。それもあって、今みたいに特別な感情を込めて私を見るようになったのね」  ぶっ、と僕は吹き出しかけた。 「い、いや、そういうわけじゃ」 「私だってそれくらい分かるのよ。鯨の私に向けられていた、探求心という特別な思いを、今は人間の姿の私に向けているのを」  僕は、がくりと肩を落としそうになりながら、同時にほっとしてもいた。よかった、沈丁花が、鋭いけれど鈍い人間で。 「でも、神谷くん、この道って西の山の方へ向かっていない? 私は、広い水場へ出たいのよ」 「実は、山で見てほしいものがあるんだ」 「そうなの」  それ以上は疑問を口にせず、沈丁花は僕と並んで自転車を進める。 「ところで沈丁花って、家から出る時に鯨になるの?」 「そうよ。両親は私が鯨になれることを知らないし、たぶん変身もできない。だから内緒。うちの庭に池があるんだけど、そこで鯨に変身して、表の道路のマンホールに出るの。帰りは色んなルートを試して、町内を一周して戻ってる。それももうやり尽くした感はあるけれど」  沈丁花が小さく嘆息した。 「私の場合、女子中学生の姿で真夜中にうろつくわけにもいかないから、鯨の姿で出発して鯨でいられるうちに家に帰らなくちゃいけないの。昼間のうちに海への道筋を検討したりもしたけれど、いまだにいい順路は見つからない」  沈丁花は、そう言って肩を落とす。  僕はペダルをこぐ足に、思わず力を込めた。
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