狐福

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狐福

轟々と激しい音を立てながら燃え盛る寺を見上げながら、ただただ静かに涙を流している娘の姿が、今でも目に焼き付いて離れないのです。 僕が此処に棲み着いてから、幾度となく季節は巡り。あの頃は江戸と呼ばれていたこの場所も、今では東京と呼ばれる様になった。 毎日の日課である散歩の途中、遥か空の彼方まで(そび)え立つ無機質な建物を一瞥(いちべつ)してから、暮らし慣れた住処(すみか)へと向かう。道すがら、木々や草花の微かな囁き声に耳を傾けながらゆっくりと歩みを進め、いつもの場所に辿り着くと、物陰にひっそりと身を隠し、気配を消し、道行く人々の顔をゆったりと眺めるのが幾年も前から続く僕の毎日だ。 此処(ここ)に足を運ぶ人間は、大体が何かから解放された様な軽い足取りで道を行き交い、それに反して視線は忙しなく彼方此方(あちらこちら)へと目移りさせている。遂には小さく感嘆の声を上げると、此処は都会の中のオアシスだ。と呟いたりする。僕には都会のオアシスと言う言葉の意味は理解できないけれど、何となく小気味良い響きのそれを、実は気に入っていたりもする。 触れ合う度に、さわさわと歌う様に音をたてる新緑の葉や、その葉を掠める様に僕の顔を時折ちらちらと照らす暖かな光、息をする度に心に迄沁み渡る澄んだ空気、ゆるゆると吹く風が誘う様に水面を揺らしている湧き水を、人間達はきっとオアシスと呼ぶのだろう。 砂利が擦れ合う音が、いよいよ子守歌に聞こえ始めた僕が、己の手に顎を乗せた時、不意に視界の先を通り過ぎた娘の姿に、手放しかけていた意識が跳ねる様に覚醒した。 あれはいつのことだったか、もうはっきりとは思い出すことが出来ないけれど、僕は成就することがないと知りながらこの娘に恋をしたのだ。 この僕が人間の娘に恋をしたなどと話せば、きっと皆が皆声を上げて笑う事だろう。あなたがその一人だとしても、僕は決してあなたを責めたりはしない故、安心して欲しい。 娘を想うこの気持ちに何か名前を付けて呼ぶとしたならば何だろうと散々考えた結果、やはり、恋という少々気恥ずかしい言葉しか思いつかなかったのは、僕が人ならざるものであるからかも知れないし、そうではないかも知れない。 ゆったりとした歩みで僕の前を通り過ぎた娘を追いかける様に、植え込みの陰に隠れながら移動する。気づかれてはいけないのだと解ってはいるものの、少しでも構わないから此方(こちら)を向いて欲しいという小さな願望が、地面に落ちた細枝を僕の前足が、後ろ足が、ぽきりぽきりと折る度にざわざわと騒ぎ立てる。 それでも僕は、決して娘を驚かせたい訳ではないのだ。僕が姿を現したならば、ここに居合わせている人間が少なからず嫌悪感を抱く事を僕は知っている。それ故に僕は、娘の姿をただただ遠くから静かに目で追うことだけに止めようと決めているのだ。 不意に僕の耳をくすぐった懐かしい娘の声にふと視線を移すと、これまた何時ぞやの青年が愛おしそうに娘を見つめている。僕は思わず、ほう、と微かに渇いた唸り声を上げる。 この寺には縁結びの神がいらっしゃると小耳に挟んだのは、真のことだったのかと此方まで嬉しくなってしまう。 時は江戸。娘と恋仲であった勇敢な青年は、志を果たすべくこの地を離れ、帰りを心待ちにしていた娘の元には終ぞ戻ることはなかった。あんなにも仲睦まじかった二人が、この寺の道を幸せそうに微笑みながら歩いていたのを、僕は幾度となく見ていたのだから、青年を想いながら一人寂しくこの寺を訪れては涙する娘の姿に、此方まで身を切られる様な思いだった。 あの日も、青年との思い出の場所であるこの寺が、真っ赤に燃え盛る炎に包まれ、漆黒の雲を天高く聳え立たせながら軋んでいく様を、娘はただただ呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。その澄んだ瞳から幾筋もの涙が伝っては落ちるのを見て僕は酷く居た堪れない思いであった。皮肉にも青年の行く末を暗示するかの様なその炎と相反する娘の涙を見た時、僕はこの世に此れほどまでに美しいものがあるのかと思ったのだ。 この時ばかりは、あの青年が酷く羨ましくも有り、(ねた)ましくも有った。青年のそれとは似ても似つかぬ己の手を見つめ、叶うものならば青年に姿を変え、娘を腕の中に閉じ込め、その美しく輝く涙を拭ってやりたいと思った。 僕は確かに娘に恋をしていた。 けれど、僕は己の恋を成就させる代わりに、輪廻転生、生まれ変わっても尚、娘と青年が出逢い愛し合える事を願った。 あぁ、神様。轟々と激しい音を立てながら燃え盛る寺を見上げながら、ただただ静かに涙を流している娘の姿が、今でも目に焼き付いて離れないのです。必ずや娘とあの青年が幸せな時を過ごせる様、どうか、どうか、このしがない狐の願いを叶えてくださいませ。 沢山の蕎麦屋が立ち並ぶ賑やかな通りを歩きながら、青年の腕に自分のそれを絡め、そっと体を寄せた娘に、もう届きもしないのに声をかける。どうぞお幸せに。いつまでも、いつまでも。 ふと見上げた先、幾枚もの花弁が僕の心を癒す様に、はらりはらりと舞い踊っていた。
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