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銀色の自由(3)
再び金木犀の前に座る銀太。
ほのかもその隣に座った。
白衣から煙草を取り出す。
いまどき校庭で、それも生徒の前で、堂々と吸う教師がいるか?
カチッと気持ちのいい音が鳴る。
「――日々精進だよ。未だに一番の下っ端だし、残業だらけだし、給料がいいかと聞かれたら、暮らすだけで精一杯だと答える」
生徒に言うことではないけどな、と自嘲した。
銀太は一瞬遅れて先ほどの話の続きか、と理解する。
「実は――この金木犀は先生が卒業制作で植えたものだ」
ほのかがこの学校の卒業生だということすら、銀太は知らなかった。
黙って聞く。
「多少は、いやだいぶ思い入れがある。こだわりと言ってもいいね。だから許せなかったんだ」
なんのことだ?
「ここの金木犀は伐採されてしまうんだ。校庭をもっと広く使うために。増えた部活動がもっと有意義に使えるように」
「……そんな話、知りませんでした」
「そうだろう。だって今朝の職員会議で伝達されたことだからな」
銀太の頭がコマみたいにぐるぐる回転する。
今朝――。
そして今日のスケッチ。
「大方なにを考えているかわかるが、たぶんその通りだ。もともとスケッチの授業なんてなかったよ。先生が急遽組み込んだんだ」
銀太は何も言えない。
だけれど、どうしてもほのかの真意を知りたくて、なんとか言葉に出した。
「一番好きな金木犀が伐採されてしまうから、記録しておきたくて、スケッチの課題を出した、ということでしょうか」
ほのかは笑みをこぼした。
「そうだな、先生はそう考えた。最初はね。さっきも言ったけど、こだわり過ぎていたんだ。いろんなことに。職業とか、たとえば金木犀に。そういう自分自身に」
――だけれど、ほのかは課題を出した際、指定しなかった。
金木犀を書きなさいとは、言わなかった。
「さっき中学生の教師になりたくなかったんですか、と聞いたな。答えはどっちでもよかった。というか、そんなこと考えてなかった。でもなってみると、案外楽しいものだと気が付いたよ」
わからないものだな、と笑った。
「今回の一件も同じだ。職員会議の間はいつ反論してやろうか、機会を伺っていたよ。でもすぐ切られるわけじゃない。ここは引いておいて、あとでガツンと殴り込みに行ってやろうと思ったんだ」
この人の場合、殴り込みは拳でグーで、パンチのことだ。
「でも――授業をしているうちに気が変わってしまったんだ。なんというかさ、金木犀を一番に置いていたのは私のこだわりで、他人には関係ない。生徒のためを思ったら伐採というのも一理ある。その方がいいかもしれない」
植物保護の観点は置いておく、と生物専門の教師らしいことを言う。
銀太はいつの間にか「先生」が「私」に変わっていることに気が付いた。
「私はただ一点から物事を見ていたわけだ。必要もないのに、ぎゅっと光を絞ってしまったわけだ。だから、反対することは辞めることにしたんだ」
こだわっていた。そうして考えるのを放棄していた。視野を狭くしていた。
それは自分のことだと銀太は思った。
そう考えるとなにかがすうっと胸の中を通り抜けた。
それはとても気持ちのいい体験だった。
最後にひとつ。銀太は気になっていた。
こだわることを辞めたのならなぜ。
「じゃあなんでスケッチを?」
「それは――」
ほのかは銀太が見たこともないような、似合わない――と言ったら怒られるだろうが――そんなとても可愛い笑顔でこう言った。
「こだわらないことにこだわっても仕方ないからな。最後くらい、私が思うままの、自由にさせてもらおうと思っただけだよ」
なんだそれ――。
つられるように、銀太も笑った。
「お? やっと笑ったな? やっぱり子どもは笑顔じゃないとな」
「子ども扱いしないでください」
いつか見返してやろう、銀太はそう思った。
悩みなんてもう、どこかに消えていた。
結局、銀太がスケッチを仕上げたのはちょうど日が落ちるところだった。
ほのかはずっと銀太の横にいた。
銀太の横で、どうでもいい話を、ずっとしていた。
スケッチをあえて遅く書いたのは銀太だけの秘密だ。
「確かに受付けました」
と、ほのかは銀太のスケッチを覗き見る。
「ってちょっとこれ」
「なんですか?」
銀太はにやけるのが隠せない。
「全然スケッチじゃない――っていうか、うまっ。天崎、こんなに絵がうまかったの?」
そこにはほのかが授業中に述べた注意事項がすべて無視された作品があった。
今にもよく知ったあの香りが漂ってきそうなその絵は――鉛筆で描いたその絵の木洩れ日は。
金色だ――。
ほのかは思いがけず、一筋の涙を流した。
それは落ちていく夕日の最後の一瞬に反射して、輝いて落ちた。
「先生?」
銀太はどうしていいか、わからない。
彼が女性の涙に対処できるようになるのは、もっと先の話だ。
それに、金木犀の花言葉は謙虚だけではない。
これも銀太が知らないこと。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと嬉しいだけ」
てっきり銀太はルールを破ったことに怒られると思っていたので拍子抜けだ。
「でもちゃんとスケッチも提出してもらうぞ?」
明日また居残りな、見張っているから、と。
「えー」
そういう銀太はちっとも嫌じゃなさそうだ。
「じゃあ先生、それ返してよ」
「イヤ」
子どもみたいだ。
「どうして?」
「それは秘密」
ほのかは白いチョークみたいな人差し指をピンとひとつたてると、それを唇に添えた。
涙が描いた軌跡が残る顔にはふさわしくない表情だった。
結局、その絵がどうなったのか、銀太が知ることになるのは三か月以上先のことだった。
「じゃあ気を付けて帰りなさい」
教室で銀太の荷物をとると、先生は職員室に寄って行くからと、また残業だよと、階段で別れた。
銀太は二つ飛ばしで階段を降り、下足箱に勢いよく手を突っ込むと、そのまま地面に投げ捨てる。つま先をトントンと押し込み、踵を均し、昇降口を出た。
蒸し暑さが残る夜が銀太を迎える。
思いついたように一度校庭に出ると、校舎を見上げた。
職員室から漏れる金色の光が、校庭を照らしている。
そこには淡くほのかに、甘い香りが漂っていた。
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