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第2話「桜のケーキと青い思い」
リゾートホテル『Pleasant Hills』の一階にあるカフェレストラン『bonhuer』
その厨房へと続く扉が押し開けられると、ティータイムの賑わいが一気に流れ込んでくる。
大股で扉をくぐり抜けた男は、大きな冷蔵庫を覗き込んでいる長身の男に歩み寄った。
「悠木君」
「オーナー」
「お客さんからご指名入ったよ。美味しいケーキのお礼を作ったパティシエさんに直接言いたいって」
桜介は、ニコリと微笑み冷蔵庫を閉じた。
エプロンを外し、言われたとおり八番のテーブルに向かう。
二人掛けテーブルの手前の椅子に、スーツ姿の男性が背を向けて座っていた。
十数年前は男性がひとりでケーキなど食べていようものなら、女々しいだなんだと散々に言われたものだが、最近は男性のひとり客も珍しくなくなった。
女性客に褒められるのはもちろん嬉しいが、男性客の褒め言葉はその数倍も嬉しい。
しかも、この客が食べて気に入ったという『桜のゼリームース』は、桜介が一から作ったこの春の新作だ。
「お待たせいたしました。パティシエの悠木と申します」
桜介は丸いテーブルの脇に立ち、コック帽ごと丁寧に頭を下げた。
テーブルの上に組まれた手が目に入り、綺麗な指をしているな、なんて思う。
ゆっくりと姿勢を正し、桜介は呼吸を止めた。
「悠木……」
「あ、綾瀬……!」
そこにいたのは、桜介の初恋の相手、綾瀬桐人だった。
「久しぶり……でも、ないか」
桐人が、ぎこちなく笑った。
「座れよ」
「そういうわけには……」
「仕事中だもんな。押しかけてごめん」
正しい返答が分からず、桜介はただじっと佇む。
「メール、送ってたんだぜ」
「……」
「電話だって何回も、した」
気づいていた。
気づいていて、桜介は何もできなかった。
メールを返すことも、電話に出ることも、電話を折り返すことも、留守電を聞くことさえも。
そして当然ながら、桜介が桐人の連絡に気づいていて無視していたことに、桐人自身も気づいていた。
「あの日、なんでいなくなったんだ?」
「……」
「トイレ行ってる隙に逃げて音信不通、なんてさあ」
「……」
「あれから俺のこと考えたりした?」
「……」
「俺は何度も考えたよ」
「……」
「俺のちんこ咥えこんで善がる悠木の顔を思い出して、何回も抜いた」
「え……」
桜介は、初めて身動いだ。
まさか桐人は、自分を〝オカズ〟にしたというのか。
「な、んで……」
「悠木だからだよ」
「俺……?」
「好きだ」
「……」
「ずっと、出会った時から好きだった」
「……」
「まさか応えてもらえるなんて思ってない」
「……」
「でも、無視されるのは本当に辛い……から」
「……」
「友達として、また会ってもらえると嬉しい」
桐人の紡ぎ出す言葉はとても弱々しく、震えていた。
どれだけの勇気を持ってここに来たのか。
どれだけの覚悟を持って思いを告げたのか。
逃げてばかりいた桜介には、想像もつかない。
「悠木!」
桜介の白い背中が、どんどん遠ざかっていく。
桐人はただ呆然と見送ることしかできなかった。
受け入れてくれなくていい。
口ではそんなことを言いながら、ほんの少し期待していた。
自分を見つめる桜介の瞳に、媚薬のせいではないなにかが込められている気がしていた。
でもそれはすべて桐人の独りよがりだった。
向けられた背中が、桜介の答え。
わかっていたはずなのに――辛い。
こんなことになるなら、あの時思いを告げておけばよかった。
あの時……いつだ?
高校の入学式ですれ違った時?
高校の卒業式で一緒に咽び泣いた時?
同窓会で再会した時?
会社の硬いソファの上で乱れに乱れ合った時?
どれも過去だ。
もう二度とやり直せない――過去。
「綾瀬」
コト、と小さな音がして、テーブルに一枚の皿がそっと乗せられた。
その上には、鮮やかなブルーのゼリー。
「夏の新作、の試作品」
「は……?」
「ヨーグルトケーキ……の上の部分になる、かもしれないゼリー」
桜介がたどたどしく説明する。
「それ、食べて待っててくれ」
「えっ……?」
「五時には上がれる、から」
桐人は、素早く瞬きする。
コック帽を支える桜介の耳が真っ赤だった。
「悠木!」
踵を返した桜介の背を呼び止める。
ビクリと跳ねた身体は、それでも振り返ろうとはしない。
桐人は、逸る気持ちを抑えながら静かに語りかけた。
「俺、期待しちゃうぜ。いいの……?」
「……」
「ゆう――」
「メールするから」
「えっ?」
「返事遅くなってごめん」
「え、え?」
桜介の長い影は、あっという間に厨房に吸い込まれ見えなくなった。
混乱した頭を必死に整理しようとするが、桐人にはよくわからない。
ふいに、テーブルに置いていた黒いスマートフォンが震えた。
桜介からのメールだ。
慌てて開封し、視線を左から右に這わせる。
桐人は、それを二度繰り返し、両手で顔を覆った。
「ずっる……!」
どこまでもずるい男だ。
逃げるだけ逃げておいて、こんな仕打ち。
『俺もずっと綾瀬が好きだった』
fin
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