第5話「秘密の恋文」

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第5話「秘密の恋文」

 シャワーの圧が強い。  シャンプーの香りが甘い。  ボディタオルがザラザラする。  電気も明るい。 (落ち着かない)  桜介(おうすけ)は、髪をかき混ぜながら目玉をキョロキョロさせた。いつもより格段に泡立ちの良いシャンプーが、短い髪をあっという間に真っ白にしてしまう。  明日からプッシュする量に気をつけよう。  そんなことをぼんやりと考え、桜介は鏡の中で赤面した。なにげない思考が、自分は『明日』もここにいるのだと思い出させる。  頭を振って細かい泡を飛ばし、桜介は勢いよく降り注ぐシャワーの下に身を収めた。 ――悠木(ゆうき)、一緒に暮らしたい。  桐人(きりと)の言葉に嘘偽りはまったくなく、次の日から事はあれよあれよと進んでいった。さすがにマンションを購入するのは気が引けて賃貸に落ち着いたけれど、桐人が大いにここを気に入り、内覧一軒目だったというのにその日のうちに契約書に判を押していた。  築十年の十階建アパートの一番上の真ん中の部屋。駅から徒歩十五分の立地も電車通勤のふたりにとっては理想的で、周りが住宅街で空気が静かなのも嬉しい。2LDKの〝2〟の内訳は、寝室と書斎がひとつずつ。元々どこでも『住めば都』タイプの桜介には、申し分ない新居。  それでもどこか心が騒めくのは、きっとこれが〝同居〟ではなく〝同棲〟だからだ。  同窓会で再会してから、まだ半年も経っていない。今さらなにかを恥じらうような年齢でもないし、高校時代から思い焦がれていた期間も含めれば十分な月日を経たとも言える。それでも桜介は、引っ越し当日の今日までずっと不安を拭いきれずにいた。  桐人はこれっぽっちの疑問も持たず、どんどん決断し、どんどん行動している。一緒に住むということは、起き抜けの顔から、食事する姿から、風呂上がりの寛ぐ姿から、さらには寝顔までをも、すべて見られるということだ。もしかしたら、独り暮らしで気がつかなかっただけで、実はものすごくイビキをかくタイプだったらどうしよう。仕事がある日はまだいいが、休日が重なれば一日中一緒にいることになる。  高校時代は、泊まりあうような間柄ではなかった。ともに過ごす時間が増えれば、今まで見えなかった一面が見えるようになる。  嫌われたり、しないだろうか。 「……ふぅ」  桜介は、今日買い揃えたばかりの真新しいバスタオルを身体に巻きつけた。肌触りは最高に良いが、水通しがまだなせいで吸水力が弱い。つい昨夜まで愛用していた使い古したボロ布を恋しく思いつつも、きっとこのバスタオルもすぐに馴染むのだろうとぼんやりと思い、また赤面した。  この新しい空間の中では、やること、見るもの、そのすべてが桜介の頬を熱くさせる。  いつも通り、スウェットとTシャツというラフな部屋着を用意したが、そのチョイスは同棲初日の服装としては正しいのだろうか。  そもそも服は着るべきなのか?  うっかりそんなことまで思い立ってしまい、桜介はついに吐き気まで覚えてきた。  こんなことでは先が思いやられる。  人知れず深いため息を吐き、桜介は黒いスウェットに長い脚を突っ込んだ。 *** 「綾瀬(あやせ)……?」  桐人は、段ボール箱に囲まれたソファにもたれかかり、すやすやと寝息を立てていた。その寝顔が穏やかで、桜介は心から安堵する。  社宅からほぼ身ひとつでやって来た桜介とは違い、桐人は冷蔵庫や洗濯機などの家電も含め、所持していたものすべてが自身のものだった。ワンルームとは言え、きっと荷造りも桜介の何倍も骨が折れたことだろう。  桜介は乱雑としたリビングを見回し、薄手のパーカーを拾い上げそっと桐人の肩にかけた。その拍子に、桐人の手に握られていた紙切れがひらりと落ちる。色褪せた薄いそれは、桜介の咽喉をゆっくりと上下させた。 「これ……」  それは、高校二年の冬に桜介が桐人に送ったものだ。  どこもかしこも浮き足立っていたバレンタインデー。桜介が所属していた調理部も例に漏れず浮き足立ち、カカオのにおいをプンプンさせていた。  桜介は、出来上がったばかりのガトーショコラを、手紙と一緒に『綾瀬』と書かれた下駄箱に忍ばせた。差出人の名前はどうしても書けなかった。  好きです。  ただそのひと言だけを、震える字でしたためた。  気づいていたのか?  いつから?  まさか、最初から?  白かった紙は、全体的に茶色く、ところどころ黄色く変色していた。勇気を振り絞って書いた四文字も、目を凝らしてやっと読めるくらいだ。  桜介の鼻の奥が、ツンと痛んだ。 「……桐人」  いつもは気恥ずかしくて呼べない名前を、口にしてみる。そっと頬を撫でても、頑なな瞼はぴくりとも動かない。ゆっくりと顔を近づけると、ぽってりと暖かい唇が優しく迎え入れてくれた。  鼻腔をくすぐるのは、同じ甘い香り。  心地いい。  さっきまで燻っていた不安が、全部消し飛んでいく。 「好きだ……」  ゆっくりと取り戻した距離を埋めるように、桜介は静かに囁いた。愛おしさを隠さずに目を細め、気持ちよさそうに眠る桐人のぱっちりと開いた瞳を見つ、め――…え? 「俺も好きだぜ」 「あ、綾瀬!起きてっ……」 「起こされた」  なにに、なんて聞くまでもない。桜介はただ、生まれたての金魚のように口をぱくぱくさせた。桐人は頬をたるませたままゆっくりと身体を起こし、視線をある一点に固定させる。 「あ……」  その視線の先をたどって、桜介は絶句した。黒いのスウェットが、そこだけ盛り上がっていた。 「桜介……おうすけ」 「っ」 「顔、見せて?」  蕩けてしまいそうな甘い響に負けて、桜介はおずおずと桐人と視線を合わせた。目尻を下げた桐人の整った顔が、ゆっくりと近づいてくる。失われる距離に呼応するように、心臓の鼓動が速くなった。 「んっ……ふ」  躊躇うことなく入り込んできた手が、桜介の火照った肌を撫で回す。 「桜介」 「綾瀬……?」 「名前、呼んで?」 「……桐人」  頬の筋肉を持ち上げ、桐人は桜介の首筋を吸った。 *** 「は……?ただの記念!?」  桐人の逞しい腕の中で、桜介が叫んだ。 「そっ。告白されたの初めてだったから、嬉しくて取ってあったんだ」 「じゃ、じゃあ……」 「まさか桜介からだとは思わなかったぜ」 「……」 「そうかあ。そんなに前から俺のこと好きだったんだ?」 「……」 「まあ俺はそのもっと、ずーっと前からだけどな!」 「……」 「桜介?」 「言うんじゃなかった……」  全身を真っ赤に染め上げた桜介に、桐人は掠めるだけのキスを落とした。  fin
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