新釈『晩年』より「葉」

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新釈『晩年』より「葉」

J'ai l'extase et j'ai la terreur d'être choisi. ──Paul-Marie Verlaine  死のうと思っていた。ことしの秋、お風呂場で髪を切った。  切った髪は、アッシュブラウンだった。つい先程まで私の一部だった髪が、死んだ絹糸のように横たわっていた。これでレースを編んだら、どんな風になるだろう。後輩が、私の遺髪でレースを編めるようになるまで、生きていようと思った。  雫もまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。  私がわるいことをしないで帰ったら、後輩は笑顔をもって迎えた。  その日その日を引きずられて暮しているだけであった。後輩の家で、たった独りして本を読み、そうしてこそこそ酒を飲んで寝る夜はことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「完全自殺マニュアル」という書物を買って来て本気に研究したこともあった。彼女はその当時、自身の阿呆さ加減に可成まいっていた。  四条烏丸の歩道の上で、先輩に騙されたのだ。 「雫、知ってるか? 金魚はでかくなったら鯉になるだろ。じゃあその鯉がさらにでかくなったらどうなるか。──龍になるんだよ」  彼女はそれを、驚きと尊敬の念を以て受け入れた。 「まあ、そうだったの! さすが先輩、なんでもよくご存知でいらっしゃるのね」  心から先輩を讃えた彼女に、先輩は無慈悲にもこう言った。 「んなわけあるか莫迦。鯉が龍になるわけねえだろ。そもそも金魚は鯉にならん」  先輩に欺かれたのが淋しいのではない。そんな阿呆くさい冗談をも平気で受け入れ得た彼女自身の自棄が淋しかったのだ。  そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということに成るんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぽっと霞んだ。泣いたのだ。雫は狼狽(うろた)えだした。こんな安価な殉情的な事柄に(なみだ)を流したのが少し恥かしかったのだ。  京阪電車から降りるとき先輩は笑うた。 「莫迦にしょげてるな。おい、元気を出せよ」  そうして雫の小さな肩を扇子でポンと叩いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白っぽかった。雫は頬のあからむほど嬉しくなった。先輩に肩をたたいて貰ったのが有難かったのだ。いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて()れるといいが、と果敢(はかな)くも願うのだった。  訪ねる人は不在であった。
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