お母さん、感謝します。ーー本当に

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 ひとしきり笑って、笑って。――そうしてようやく一呼吸つくと、ミキはまずデスクの上に置いてあったカレンダーを確認する。月ごとにめくるタイプのそれが、今は2219年の5月であるのだと示していた。  百年後か・・・、とミキはこめかみを押える。  ああ、そうだ、百年。確かに自分はその年数、コールドスリープのタイマーをセットした。百年前の5月19日の話だ。  では百年でどれほど時勢は変化したのだろうか。部屋には壁にテレビが埋め込まれていて、コントローラーが脇にかけられていた。  ――ふむ。・・・とミキは唇の端をとん、とんと叩く。  テレビと手の中のベルとを交互に見てから、にんまりと笑ってソファに腰掛け足を組む。そうしてベルを顔の高さに掲げると――りぃん、りぃん、と鳴らした。  数秒と待たずに、ドアがノックされる。入室を許せば入って来たのは若いメイドだ。二十代前半か、もしかしたら十代後半かもしれない。ほんのり紅色の頬に、輪郭を覆うおさげ髪。エプロンドレスはよく似合っているが、なんともレトロである。  「新聞を持ってきて欲しいのだけれど。」  「かしこまりました。いつのものをお持ちいたしましょうか?」  抑揚の無いしゃべり方は、あのバトラーと似ている。  しかしミキが気になったのはそんな事では無い。ぽかん、と口を開けて小さな頭を下げているメイドをまじまじと見つめた。  普通、新聞を持って来てくれと言われたら、持ってくるのは当日のそれだろう。  少し憮然としながらもその事を指摘してやると、また「かしこまりました」と完璧な所作で礼をする。  数分と待たせず、メイドがトレイの上に灰色の紙束を載せて現れた。  「こちらが本日の『日読新聞』になります。」  ミキの時代にもあった、最もポピュラーな新聞だ。百年経っても生き残っていたのか、と苦々しく思う。この新聞社がミキを弾劾する記事を最初に書いたという事実は、時間の上では百年の開きがあろうとも、ミキにとっては近しい過去である。  とりあえず、読まない事には始まらない・・・とそれを受け取って・・・そうしてすぐにメイドの顔に叩き付けた。  「人を馬鹿にするのも大概になさいっ!!」  紙束が人の頬をはたく音はなかなか愉快だが、今回はミキの心を宥める要素になりえなかった。  受け取る前は文字だと思っていた紙面上の小さな印刷は、しかし無数の「-」の記号。ひたすら、どこまでも。ダッシュ記号で紙面が埋まっている。  先程の彼女の珍妙な疑問も合わせて、これは問い詰めねばならないだろう。伊左名ミキは完璧主義者なのだ。故に、完璧足らぬものは許してはならない。まして、己を揶揄おうなどと言う不届きものなど。  ――全く、何様でこの私の前に立っているのか、とミキは思う。いや、己が問い詰めるよりは直接の上司に問い詰めた方が年若い彼女には利くかもしれない。  ミキは目覚めたばかりで、彼女にとっては今日初めての邂逅だ。それよりは彼女にとって付き合いの長く、より親しみのある者にこそ責任を取ってもらうべきである。  ミキはベルを何度もかき鳴らした。    ――りんりん、りんりん、りんりん、りんりん、りんりん、りんりん。  やはり数秒と待たせず、姿を現したのはバトラーの男だ。その色気のある顔を見ると、少しだけミキの苛立ちも収まる。  しかしベルを何度もかき鳴らしたせいか、耳の奥で音が反響している。  ミキは舌打ちをしてから、女主人らしく背筋を伸ばして顎を引いた。  そうしてメイドの所行を説明してやれば、・・・しかし、執事の口元にほんのりと浮かんだ笑みが崩れる事は無く、その目に狼狽の感情が宿る事も無い。  「この時代の人間は、教育がなっていなのではないかしら?」  「いえ、滅相もございません。彼女は間違いなく本日の新聞をお持ちしたのでございます。」  バトラーは足下に落ちた新聞を拾い上げると、上に印字された発行日を示す数字を指さす。  ――2219年5月19日  数少ない「-」以外の印字は、確かに本日であろう日付だ。しかしそれでも、何の広告も、ニュースもない新聞が存在しようか。  「ご不快に思われましたのなら、申し訳ございません。  ですが伊左名様、この時代では特筆して新聞に載せられるような事件や事故というものが無いのでございます。」  「・・・・事件が無い?」  「さようでございます。“真新しいもの”は何もありません。  ですが新聞というものは、『人間』が作り上げた文化でございます。  それを無くしてしまうには、あまりに人間らしくない所行。その為現在ではこうして、発行される為の新聞があるのでございます。」    ミキは眉根を寄せた。バトラーの言葉の意味が今一理解できない。  「発行される為?――読む為じゃなくて・・・??」  「さようでございます。」  すでに何度も見た、完璧な一礼。しかしミキの眉間の皺は消えない。  発行されるだけの新聞が、何の役に立つというのか。  「伊左名様。総主曰く、伊左名様はこの世界を救ってくださる方とお伺いしております。  その伊左名様に不快を覚えさせるなど、謝罪してもしきれぬ事ではありますが・・・。  決して、この娘も故意で行ったわけではありません。  どうぞお許し頂けませんでしょうか。」  「はあ・・・・。」  世界を救う。またその言葉が出た。最初はミキの能力を認め、その才能が必要になった上での一種の比喩であると思っていたのだが・・・。  あるいは本当に言葉通り、世界を救う云々という話なのだろうか。二度目、こうして聞いて頭の中で租借してみると、どうにも胡散臭い。  半眼で睨んでも、目の前の二人は頭を下げるばかりで、反応は無い。  恐らくミキが許すまでこのままだろう。  ミキは右手を振った。  「解った、いいわよ。許してあげるから顔をあげなさいな。」  「寛大なお心に感謝いたします。」  バトラーも、メイドも、その態度は真摯である。少なくとも、ミキをからかっている様子は見受けられない。  「でも、私が世界を救うっていうのは、どういう意味かしら?」  「伊左名様の頭脳が必要で在るのだと、総主はおっしゃております。」  「頭脳、ね」  そう言われれば悪い気はしない。ミキは己の頭脳に絶対的な自信を持っている。そして、百年前の馬鹿共はそれを全く理解しなかった。  「総主ってのは何よ」  世界を救う事を個人に依頼できる人間が、そもそもミキに頼み事などをしようという人間がそこらの一般人であってはならない。  「現在この世界を纏めておられる方でございます。  明日、総主より伊左名様を官邸にご招待致したいとの由、全てはその時、総主より伊左名様に直接ご説明くださるかと。」  「ふうん、私を呼びつけるんだ。」  「申し訳無く、総主はお体が不自由でございますゆえ。」  ―――結局、ミキは二人を下がらせた。  総主というのがどのような人間であれ、ミキの頭脳の優秀さを理解する程度にはまともな存在であるようだ。  しかし・・・と釈然としない想いを抱えながら、今度はテレビのスイッチを入れる。  液晶の中に映し出されたのは、ただ街中の風景や自然公園の映像を流すだけのチャンネル。恐らくリアルタイムの映像なのだろうけれど、説明も何も無い。  かと思えばドラマをやっているチャンネルもあって、確かミキがコールドスリープに入る少し前に大ヒットした作品である。画面の端には小さく再放送の文字。――百年前の作品の再放送とは・・・よくもフィルムが無事だったものだ。実際、映像が時折擦り切れる。  唯一まともそうなのは天気予報だ。しかし一週間分の天気がずらっと並ぶそのデザインは無機質だし、やはり説明すらも無く、アナウンサーの姿も映らない。  テレビを消して、コントローラーを画面に投げつける。小さく罅が入ったようだが、それも仕方があるまい。  ミキはまたベルを鳴らす。先程の件があったからか、ノックをして入って来たのは別のメイドだった。今度はミキと同じ年ぐらい。  「気分転換に音楽が聴きたいわ。今流行りの曲を持ってきて頂戴。」  この時代の音楽媒体は何だろうか。ミキは基本携帯にデータを落として聞いていたが、顔見知りの同僚の中には古いオーディオを愛用している者もいた。  「今現在、流行の曲というものはございません。」  「無いという事はないでしょう。週間チャートとか、街中で最近よく流れる曲とか。」  「どちらもございません。」  「・・・・・・いいわ、下がって。」    メイドは一礼して退出する。  全く、どうなっているというのか・・・この時代は。テレビ番組にはバラエティも最新のドラマも無い。音楽も無い。新聞はダッシュ記号の塊。  ・・・娯楽が無いのだろうか。  ミキは窓の外を見る。どうやらこの屋敷の周りは広い庭に囲まれているようだが、庭を囲む塀の向こうには住宅街が見える。ちょっと視界を上げれば、距離はあるがビル群の輪郭が目に入った。  人間が住んでいる街。あれだけ人間が存在していながら、娯楽が無いなどという事があろうか。  それに、あのビル群や住宅街には見覚えがある。百年前のそれと殆ど変わらぬ姿を、ミキは知っていた。  伊左名ミキはコールドスリープについた。ミキの頭脳に世間が追いつくその日まで。百年で足りなければもう百年、更に百年だって追加するつもりだった。  世界は必ず、ミキに追いつくのだと確信していた。  事実、この時代の者達はミキを必要だと言っている。世界を救えるのだと言う。  ―――もし、もしそれらが全てが嘘ならどうだろう。テレビのどっきり企画のようなものだ。  流石に本当にどっきり企画という事は無いだろう。それならとっくにミキは警察に取り押さえられている。  が、違和感は確かにあるのだ。それは、じわじわとミキの胸の真ん中から全身へと、不安と反発心の形を成して浸食していく。  ミキは自分がこうあるべきだと信じた行為の失敗は認めない。完璧主義者だから。  けれども、コールドスリープを途中で無理矢理解除する方法が無いわけでもない。  生きた人間が使用するのだ、いざ緊急事態に陥った時の安全装置は備わっている。  デスクの上のカレンダーも、新聞の上の日付も、全部この屋敷の者達が用意した物である。それらはいくらでもねつ造が可能で、ミキの側から真実を証明する事ができない。  携帯が無い事が悔やまれた。真実今が百年後であるなら、ミキの携帯などとっくに壊れているだろうけれども。  この屋敷の誰かから借りるなどは愚骨頂だろう。  「気にくわない」  ミキは人差し指の爪を噛んだ。  何者かが、ミキを欺そうとしている。欺されたミキを嘲笑っている。もしもそうであるのならば・・・。  冗談ではない話だった。なんとかして、今の時代を正しく知る方法を・・・と考えてベルを鳴らす。  やってきたのは先程のメイドだ。  「私が眠ってからの、全ての新聞を持ってきて頂戴。データでもいいわ。」  「全ての、でございますか?」  「そうよ、新聞社にでもいけば保管してあるでしょう――すぐによ、すぐに。  二時間以内っ!!」  「かしこまりました。」  もし、何者かがミキを欺しているのだとして・・・ならばすぐに百年分の新聞など用意はできまい。  全てを「-」だけの新聞にしてしまえば可能かもしれないが、流石にミキが眠りについた翌日の分からそんな事をすれば、それはもうねつ造確実である。  ほくそ笑むミキの元に、届けられたのはUSBだった。月ごとに区分けされてプラスチックケースに収まったそれが百年分、段ボール一個に丸々詰め込まれている。  フロッピーディスクが廃れるまでは・・・さてはて、何年だったか。  USBは百年経っても使用されているらしい。件のメイドがノートパソコンも一緒に持ってきてくれたので、さっさと退出させて、ミキはパソコンにUSBをセットした。  昨日分のデータを開けば、やはり「-」記号しか記載が無い。  逆にミキが眠りについた日付から追っていくと、こちらはきちんとした記事が文字として並んでいる。少し悩んで、後者の方から追っていこうと決めた。  これを追っていけば、時代がどう変わっていったかも解る。  眠りについてから一ヶ月後には、伊左名ミキの死亡説が掲載されていた。  一年後には新たな独立国家が生まれたのだ、とでかでかと。  五年後には原油に変わる新たなエネルギー源への本格移行の記事。  途中、面白かったのは例のコールドスリープに関する記事で、何でも開発陣が出資者との間に不正を働いたとかで、世間のバッシングを浴びて先の製作が生きずまり、結局一般商品化を前にしてにとん挫したらしいという事だ。―――やっぱり馬鹿者だったのね、とミキはうっそりと笑った。  因みにミキが所持していたコールドスリープの装置は、研究仲間の弱みと言う名のつてを使って手に入れた、試作機の一つである。    流石に全部を見る気にはなれず、大体一ヶ月間隔でデータを開いていったが、それでも尚百年分はきつい。明日は一年ごとに切り替えようか、と思う。  眉間の辺りを揉んでから、椅子の上で大きく伸びをする。肩甲骨が固まってしまっていた。誰か呼んで揉ませようか、と思う。――窓の外はすでに日が落ちて真っ暗だが、主たるミキがこうして起きているのに、使用人が寝静まっていたり帰宅していたりなどという馬鹿な話はあるまい。  ベルを鳴らせば、今度はあのバトラーが顔を出す。肩が凝ったと言えば別にもう一人メイドを呼び寄せ、更に夕食と入浴はどうするかと聞かれた。    夕食は食べる気になれなかったが、入浴はしたい。  メイドに肩を揉ませながらそう伝えれば、この部屋から直結するバスルームの準備をてきぱきとバトラーは進めた。  まあ、色々と思うところはあるが、このバトラーは合格点なのだ。  ミキはノートパソコンをぱたりと閉じる。  丁度次に読もうとしていたページが、折りたたまれたパソコンの下に隠れた。  『目に見えぬ反乱?』  『第三次世界大戦勃発か』  少々不穏な単語が、視界の端に映ったように映った気がした。
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