壱 やばい物件

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 俺達はその男を見てぎょっとした。どこからどう見ても異様としか思えない。黒い学ラン姿に学生帽をかぶり、真っ黒な外套をつけている。少し長めの髪を後ろで無造作に束ね、足には下駄をはいていた。一目瞭然で怪しい上に、今日の様に蒸し暑い日になんて恰好だ。いや、暑さだけの問題ではないのだけども・・・。 「なぁ閏・・・あれ見た?」 「見た・・・・怪しい・・・怪しすぎるだろ・・・」 「あの物件に入る人・・・?なのか?」 「そうだろうな・・・なんか鍵開けてるし」 「まじかよ・・・勇者だな・・・・」 「そうだな、見た目は・・・怪しいけど・・・勇者だな・・・」 手にしたシェイクが溶けるのも忘れて、俺と克馬は引っ越し屋を人の良さそうな笑みを浮かべて誘導するその怪しい勇者に見入っていた。よほど見すぎたのか、不意に勇者が顔を上げた時、目があってしまった。とはいえ、勇者がいるのは通りを挟んだ反対側だ。大丈夫だろうと高をくくったが、次の瞬間、勇者は通りを超えて俺たちに向かって真っすぐに歩いてきた。 「えっ?」 「うそ・・・なんで?勇者がこっち来るぞ?」 俺達が焦ってまごまごとする間にも、勇者はしゃんと伸びた姿勢で颯爽と下駄を鳴らしてあっという間に俺達ふたりの目の前にやってきた。間近でみればその怪しさには拍車がかかり、むしろ圧倒された。黒い外套に覆われたその男が勇者ではなくまるで死神に見えた時、俺達に向かってにこりと笑った。 「やぁ、君たちはここら辺の子かい?」 「えぇっと・・・・そうです」 俺が挙動不審になりながら答える傍らで、克馬はこの怪しい男に興味津々な様子で、むしろこの状況を楽しむように、自分から声をかけた。今の俺には、克馬こそが勇者に見える。 「お兄さん、あそこに引っ越してきたの?」 「あぁ、実はそうなんだ」 「ねぇそれ・・・学ラン?でも・・・・お兄さん高校生じゃないよね?どう見ても・・・20代って感じだし・・・」 「あぁ、僕は高校生じゃないよ。これはねまぁ、仕事着みたいなものなんだ」 「仕事着・・・・?学ランが?それにそれ・・・マント?なんで学ランにマント?」 「あぁ、これは外套(がいとう)だよ。そうだね・・・今日みたいな日には少し不似合いだったかもしれないね」 矢継ぎ早に繰り出された克馬からの質問にも、男は嫌な顔ひとつせずに答えてにこりと笑う。俺と克馬は顔を見合わせた。 「あの・・・引っ越して来たって・・・でも・・・あの物件って・・・・」 俺が言いかけると男は何でもないことのように言う。 「あぁ、知ってるよ。この辺りじゃ『やばい物件』なんて言われてるそうだね」 「知ってて?知ってて越して来たんですか?」 「あぁ、そうだね。知ってて越してきたんだ。『やばい』ってのは一体誰にとってだろうね。僕にとってはちっともやばくはないと思うよ。むしろ都合がいい」 俺も克馬も一瞬言葉を失った。男の言ってることが理解できない。死神だか勇者だか知らないが、いわくつき物件に知ってて越してきた上に『都合がいい』などと一体どういう神経の持ち主なのかと疑う。それに加えてこの身なりだ。この男を変り者と呼ばずに、誰をよぶのかと俺は呆れた。 「ところで君・・・」 それが自分に向けられた言葉だとわかると、いやでも背筋が伸びた。 「は・・・はい」 「本・・・好きなの?」 「え?あぁ・・・まぁ・・・って、どうしてわかるんですか?」 男はクスクスと笑うと、俺の学校のリュックのポケットに入った刑事ものの文庫本を指さした。なるほど、なかなか観察眼だと感心すると同時に俺自身の心のうちまで見透かされるような気がして見えていた本のタイトルを慌ててかばんのポケットに押し込んだ時だった。 「僕は暁時雨(あかつきしぐれ)っていうんだ。実はあそこで本屋をやろうと思うんだけど・・・・君、本が好きならバイトしない?」 「え?バイトって・・・俺ですか?」 「うん、そう。まぁバイトって言ってもレジに座っていてくれる程度でいいんだけどね。なんならそこで本を読んでもいいし、勉強してもいいよ?君でもいいけど・・・・どうだろう?」 そう言って男が克馬を見ると、克馬はぶんぶんと首を振った。 「俺は成績悪いから・・・・塾とかも行かなきゃならないし多分無理です」 「そうか。じゃぁやっぱり君。どうかな?」 俺は言葉に詰まった。確かに俺は塾へ行っているわけでもないし、行く予定もない。一応時間はある。とはいえ受験生の立場であるわけで、この時期にバイトを始めるというのも気がひけるが、なにより気になるのはそのバイト先が、あの『やばい物件』であるということだ。口ごもる俺が迷っているように見えたのか、暁時雨はポンと手を打って言った。 「よし、手の空いた時には君の勉強も見てあげよう。塾に行く手間が省ける。いい考えだろ?とりあえずさ一度来てみてよ。決めるのはそれからでも遅くはないだろう?あ、名前・・・、聞いてもいいかい?」 「え?あ・・・俺は成瀬閏(なるせうる)です、こっちは友達の高杉勝馬」 克馬は小さく首だけで挨拶をした。 「うん。閏君に、克馬君だね。じゃぁ閏君、明日学校が終わったらおいでよ。待ってるよ」 「えっいや・・・・でも俺っ」 俺が言い終わる前に暁時雨は、もう下駄を鳴らして歩き出していた。暁時雨と名乗った風変りな男はその見た目とは裏腹に、言葉も表情も終始穏やかだったのに、無茶苦茶強引に話を進めていった気がする。柔らかな言葉には有無を言わせぬ強さがあって、否定を許さない・・・そんな感じだった。 「えっと・・・俺・・・明日あそこに行く感じ?」 「あぁ・・・そんな話だったな・・・閏・・・頑張れな」 「いや、頑張れとかじゃなくてっ!なんでそうなった?俺、行くって言ったか?」 「いや・・・言ってはいないけど・・・行く感じで話・・・まとまっちまったな・・・」 立ち上がり絶叫する俺を、克馬はまるで他人事のように笑っていた。いや、他人事なんだろうけど、薄情だ。図らずも俺は明日、あの『やばい物件』に行くことになってしまったのだった。
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