それは出会い

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それは出会い

 微かな物音で目が覚めた。  ゆっくりと瞼を開けた先に、木造の天井が見える。目覚めたばかりで視界はぼやけているが、その天井が、木の板を隙間無く並べて造られたものだということは分かる。  しばらくの間、何をするでもなくぼんやりと、そこにある板の継ぎ目を眺めていた。頭の中に靄がかかっているようで、何も考えることができない。  何かとてつもなく重大なものが、体から抜け落ちてしまったような感覚だった。そんな虚無感とも喪失感ともつかないものが、澱のように体に溜まっている。  脱け殻になった気分だった。一体どれほどの間そうしていたのかは、自分でもよく分からない。 「――あっ。気が付きました?」  不意に横合いから声が聞こえ、その声の主を探して視線を彷徨わせた。若く、どこか透明な女の声だ。いや、〝少女の声〟と言った方が正確だろうか。  どこからともなく語りかけてきたその声は、少女らしい無邪気さと好奇心、そして微かな高揚の気配を孕んでいた。しかし同時に、思わず弾みそうになった声色をすんでのところで抑えたような、遠慮がちな響きもある。  その少女の姿を捉えようと力無く宙を這った視線の先に、俄然、灰被り薔薇の色(アッシュローズ)が飛び出してきた。それはこちらを覗き込んだ十五、六歳くらいの少女の髪の色で、次いで視界に入った緑青色の瞳が、無垢な眼差しを一心に注いでくる。 「あんたは……?」 「私はグレイシィ。グレイシィ・フォスターと申します。ご気分はいかがですか?」 「グレイシィ……? よく、分からないが……頭がひどくぼーっとする……ここはどこだ……?」 「ここはヘウリスコ村の村長、ベイジルの家です。私はベイジルの孫で、今はこの家の留守を預かっています。昨日のこと、覚えてますか?」 「昨日……?」 「あなた、村の北の森で倒れていたんですよ。それを偶然私が見つけて、ここまでお連れしたんです。大きな怪我は見当たりませんでしたが、左手の親指が切れていたので薬を塗っておきました。私が見つけたときにはもう血も止まっていたから、心配はいらないと思います」  左手、と言われ、無意識にそちらの手をもたげた。親指には確かに包帯が巻かれており、動かすとほんの微かな痛みが走る。  その痛みが少しだけ、頭の中の靄を払った。もう一度親指を動かしてみる。痛い。しかし、何故親指など切ったのか。理由がまるで思い出せない。 「あの、よろしかったら、あなたのお名前を教えていただけませんか?」 「……分からない」 「え?」 「分からない……思い出せない、何も。俺は……――俺は、誰だ?」  遠慮がちにこちらを見つめていた少女の瞳が、みるみる見開かれていくのが分かった。その一方で寝台に寝かされた青年もまた、次第に意識がはっきりしてくるのを自覚する。  俺は誰だ。もう一度そう自問したが、青年の中から答えは返ってこなかった。俺は誰だ。声に出して呟く度、少しずつ明瞭になる意識が、今度は焦燥を連れてくる。  何故思い出せない。そう思いながら、青年はゆっくりと寝台の上に体を起こした。頭の奥がずきずきと痛む。それほど激しい痛みではないが、自分が何者なのか分からない青年の焦りと混乱を助長するには充分な援軍だ。 「何で……何で何も思い出せないんだ? 自分のことなのに……名前も、歳も、どうしてここにいるのかも、何も思い出せない……!」 「そ、それって……ひょっとして、記憶喪失、ですか?」  記憶喪失。横から少女が告げたあまりにも現実味を伴わない言葉に、青年はしばし茫然とした。  だが、今の青年の状況を言い表す言葉としてこれほど的確なものは他に無い。どんなに頭の中を探ってみても、今の青年には自分の正体は疎か、これまで積み重ねてきた記憶の片鱗さえ見つけられないのだ。 「記憶、喪失……そんな馬鹿な……そんなことが、本当に有り得るなんて……」 「本当に何も思い出せないんですか? 昨日、何故あの森にいたのかも?」 「ああ……自分でも信じられないが、森にいたってことすら覚えてない。俺は一人でそこに倒れてたのか?」 「は、はい。辺りに人や魔物の気配はありませんでしたし、特にお怪我も見当たらなかったので、私も旅の途中で行き倒れた方かと思ったんです。だけどまさか、記憶を失って倒れていただなんて……」 「……鏡」 「え?」 「悪いが、鏡、持ってないか? 自分の顔も思い出せないんだ……鏡を見れば、何か記憶が戻るかもしれない」  自分の顔も分からないと聞いて、少女――グレイシィは束の間ぎょっとしたようだった。が、彼女はすぐに立ち上がって頷くと、身を翻して部屋の隅の机に向かう。  そこには人の掌ほどの大きさをした置き鏡が乗っており、グレイシィはそれを手に取って駆け戻ってきた。その足取りは思いの外軽く、彼女が一歩駆ける度に、肩の辺りから緩やかにうねったミディアムヘアーがふわりと跳ねる。 「どうぞ」  そうして差し出された置き鏡を、青年は緊張の面持ちで受け取った。  まったく予期していなかった事態に、心は激しく動揺している。その動揺を鎮めるために一度深く息をつき、青年は怖々と鏡の中を覗き込む。  次に青年を襲ったのは、想像を絶する衝撃と絶望だった。誰だ、これは。思わず吐き出した声が震える。分からない。たった今鏡に映っている男が、自分であると確信することができない。  まるで知らない男だ。そう思いながら、青年は鏡に映った顔面蒼白な若者――恐らくそれが自分だと思われる――としばし見つめ合った。髪は黒く、いささかの癖はあるが短めに切り揃えられている。歳は十七、八歳くらいだろうか。  瞳の色も髪と同じで、宝石のように深く透き通ったグレイシィのそれとはまるで別の物体のように見えた。肌は、健康的な肌色をしたグレイシィより少し黄色いように思う。服は七分袖の黒シャツに、淡いグレーのジャケットを重ねていた。悪くないセンスだとは思うが、隣のグレイシィのそれと見比べると何となく赴きが違うような気がする。  グレイシィの纏う薄紅色のワンピースは、その下に重ねられた白のブラウスとよく調和して、彼女の大人しそうな印象をより強調していた。が、彼女の服のデザインは至ってシンプルだ。余計な装飾など一切無く、ただ布一枚から作った体で、何となく全体が色褪せて見える。煤けて見える、と言った方が伝わりやすいだろうか。  一方の青年の衣服は、森に倒れていたという割りには小綺麗で、素材からしてグレイシィが着ているものとはどこか違うような気がした。ジャケットの左右に付いた胸ポケットのボタンには、妙に凝ったデザインの文様が彫り込まれている。袖の折り返しや裾の縫い目もかなり細かく、それなりに高度な技術を持った者の手によって縫製されたものであることが窺い知れる。  更に青年の首からは、革製と思われる長い紐がぶら下がり、その先に銀色の指輪のようなものが吊られていた。  それを手に取って眺めてみると、リングの内側に何か刻印されているのが分かる。それは文字のように見えたが、今の青年にはまるで読めなかった。かつて読めたのかどうかも分からないが、少なくとも今の青年にはまったく未知の文字にしか見えない。 「どうですか? 何か思い出せました?」 「いや……駄目だ。やっぱり何も思い出せない……これが本当に俺の顔なのかどうかも、分からない」 「お、思ったより重症みたいですね……――あっ、それならこれはどうですか?」  と、ときにグレイシィが何か閃いたような声を上げ、突如その場に屈み込んだ。  何事かと思って見ていると、彼女は寝台の下から何かを取り出して差し出してくる。青年の目の前に示されたそれは、鮮やかな橙色をした荷袋のようだ。 「これは?」 「昨日、あなたを見つけたときに身に付けていたものです。何だか変わった形だし、勝手に人のものを見たらいけないと思って中身は見なかったんですが、この中になら、何か記憶を取り戻す手がかりがあるんじゃないでしょうか?」  自分が身に付けていた、と言われたところでいまいちぴんとこなかったが、青年はひとまず差し出されたそれを受け取った。  荷袋は実に小さなもので、人の頭ほどの大きさもない。大小ある二つの口はギザギザの金具のようなもので閉ざされていて、袋の両端には黒く長い帯が付いていた。更にその帯の先端には、石とも鉄とも違う軽い素材で作られた、留め具のようなものが取り付けられている。  青年はそれをしげしげと眺めた後、荷袋の脇に小さなつまみのようなものがぶら下がっているのを見つけ、それをつまんだ。そのままつまみをギザギザの金属に添って動かせば、ジジジジという独特な音と共に口が開く。  荷袋自体に見覚えは無かったが、口の開け方は不思議なほどすんなりと分かった。恐らく体が覚えていたのだろう。ということは、この荷袋は青年の持ち物だと考えてまず間違いなさそうだ。 「あ……それ、そうやって開けるんだ……」 「え?」 「あっ、い、いえ、すみません。何でもないです」  と、そこで何やら感心していた様子のグレイシィが、青年と目が合うなり跳び上がって両手を振った。どうやらグレイシィには、この荷袋の開け方が分からなかったようだ。だとすればこれもまた、この辺りには無い製法で作られたものなのかもしれない。  そんなものを身に付けた状態で倒れていたということは、自分はやはり遠方から来た旅人か何かだったのだろうか。先程のグレイシィの言葉を思い出しながら、青年は無造作に袋の中身を掴み出した。  出てきたのは、ほんのわずかな荷物だけだ。用途不明の黒い板。謎の文字が八面に書かれた小さな紙箱。同じく謎の文字が書かれた、銀色のふにゃふにゃした袋。二つ折りの紙。財布。そして、折り畳み式のナイフだ。 「わっ、すごい。そんな短剣、初めて見た……」  と、グレイシィが驚いたような声を上げたのは、青年が手にした折り畳み式ナイフの柄から刃が飛び出したときのことだった。どうやらこれもこの辺りでは見かけない代物のようだが、やはり青年の体は使い方を覚えている。  一方で、まるで使い方を思い出せないものもあった。最初に取り出した黒い板がそうだ。それなりに硬く、大きさは掌に乗る程度だが、一体何の用途で使うものなのかまったく分からない。  謎の文字が細かく書き込まれた紙箱も、妙な触り心地の銀の袋――袋の上部には蓋のようなものを被った突起がある――も、その正体が何であるのかはまったくの謎だ。箱の方は一旦開けてみたが、中には更に不思議な素材の袋が入っており、得体が知れないので調べるのをやめた。  続いて財布と思しい革製の入れ物を開けてみると、中からは数枚の金貨と銀貨、銅貨が出てきた。が、金貨や銀貨の中には、真ん中に穴が開いているものもある。これでは硬貨としての価値が無い、と、いささか気の毒そうにグレイシィは言った。  他に入っていた数枚の紙切れも、やはりこの辺りでは見かけないもののようだ。硬貨に施された刻印は、この国――ここはオロス帝国という巨大な国の領土らしい――の通貨とは違うものだ、とグレイシィが教えてくれた。こうなると、ますます青年が異国の地から来たという可能性が高くなってくる。が、記憶はまだ戻らない。  最後に青年が手に取ったのは、袋の中から二つ折りの状態で出てきた白い紙だった。何気無くそれを開いてみると、中に挟まっていた別の紙がひらりと宙に滑り出し、椅子に腰かけたグレイシィの足元へと舞い落ちる。  ところがそれを拾い上げた途端、グレイシィがまたしても驚きの声を上げた。彼女が手にした一枚の紙には、一人の若い女の絵が描かれている。 「すごい。まるで本物みたいな絵……!」  グレイシィが感激した様子で見つめた小さな絵は、やけにつるつるとした光沢のある紙に描かれていた。絵柄は実に写実的で、まるで人が見た景色をそのまま紙に焼き付けたかのようだ。  その絵の中にいるのは齢二十四、五歳くらいの利発そうな女だった。髪はグレイシィのものよりやや長く、明るい栗色をしている。  何よりこちらに向けられたその女の笑顔が、やけに印象的だった。女の笑顔には、彼女の明るさと優しさをそのまま見る者に伝えるような、不思議な魅力と可憐さがある。  完璧な美人ではないが、顔は整っている方だと言えた。女の背後には色とりどりの花が咲き乱れ、それがまた女の笑顔に華やかさを添えている。 「綺麗な方ですね。この人、お知り合いですか?」 「そう、なのかな……分からない。ただ、荷物の中にその絵があったってことは、たぶん知り合いなんだと思う」 「これ、絵の裏に何か書いてありますよ。どこかの国の言葉みたいですけど……生憎、私には分からない言葉ですね」  そう言ってグレイシィが示してみせた絵の裏面には、確かに一文だけ、何か短い言葉が綴られていた。  が、やはり今の青年には読めないものだ。それが自分で書いたものなのかも、何が書かれているのかも、まったくもって分からない。 「そちらの紙には何が書かれていたんですか?」 「それもさっぱりだ。たぶん、その絵の裏に書いてあるのと同じ言語だと思う。あとは、よく分からない絵が一枚……」  言いながら青年が目を落としたのは、数行に渡って謎の文字が綴られた一枚の紙だった。その下にもう一枚、不可思議な図形を描いた同じ大きさの紙がある。  女の絵とは打って変わって、実にシンプルな線画だった。それは絵というより文様に近く、大きな円の中に様々な図形や文字が幾何学的に並んでいる。 「あ! それ、魔法陣ですよね」 「まほうじん?」 「はい。魔術師が魔術を使うときに描く文様ですよ。でもそれ、血がついてますね」 「ああ。指を切ったときにでも触ったのかな……」  グレイシィの言うとおり、〝魔法陣〟が描かれた白い紙は所々血で汚れていた。血痕はすっかり乾き、今ではだいぶ黒ずんで見える。  しかし結局、持ち物からも青年の素性に関する情報は何も得られなかった。謎の箱や紙に書かれている文字さえ解読できれば何か分かるのかもしれないが、どんなにそれと睨み合ったところで読み方など見当もつかない。 「くそ……一体何がどうなってるんだ。この荷物は何だよ……役に立つものなんか一つも入っちゃいない」 「困りましたね。他に手がかりになりそうなものは何もありませんし……」  自分の正体も来歴も、何も分からない。その焦燥は青年の中で、いつしか漠然とした不安に変わっていた。  自分の身元が分からなければ、一体どこから来たのかも、どこへ行こうとしていたのかも分からない。家族がいるのなら連絡を取り合うこともできないし、この先どこへ行けばいいのかも、どうやって暮らしていけばいいのかも分からない。  とにかく分からないことだらけだ。その〝分からない〟ということが焦りと不安と苛立ちを生み、青年を激しく追い立てた。  自分はこれからどうすればいいのか。どうすれば記憶は戻るのか。自分は一体誰なのか。答えの見つからない疑問だけが次々と頭に浮かび、青年の心の均衡を崩そうとする。 「――あの、ところでお腹空いてませんか?」  ところがそのとき、部屋に響いた調子外れな質問が、ぐるぐると渦を巻いていた青年の思考を遮断した。  こんな状況で腹が減ったとか減っていないとか、そんなことを考えている余裕などあるわけがない。青年がそういう意味の視線を送ると、質問の主――グレイシィは、ちょっと気後れしたように下を向く。 「ご、ごめんなさい。だけど今は、焦っても仕方がないような気がして……」 「仕方がないって、こっちは自分の名前も素性も分からないんだぞ。焦るなって方が無理な話だろ」 「そうかもしれません。でも何も思い出せないのは、意識が戻ったばかりで少し混乱しているせいもあるんじゃないでしょうか。そうだとすれば、時間が経つにつれて少しずつ記憶が戻ってくるかもしれませんよ」  それはあまりに楽観的な意見だ、と言いたかったが、ときに青年は、再び顔を上げたグレイシィの目に励ますような光があることに気が付いた。  恐らくグレイシィは、いきなり記憶の無い暗闇へ突き落とされた青年の不安を拭おうと気を遣ってくれているのだ。その証拠に彼女は殊更明るい笑顔を作り、声も弾んだ調子で言う。 「さっきも言いましたが、今、この家には私しかいません。祖父は現在、近隣の村との寄り合いに行っているんです。ですから衣食住のことはお気になさらず、しばらくこの家でゆっくりお休みになって下さい。早く記憶が戻るよう、私もお手伝いしますから」 「それは有り難いが……本当に、ここで世話になってもいいのか? 何の素性も分からない人間なのに?」 「私は一向に構いませんよ。ちょうど家に一人きりでたいく……心細く思っていたところですし、困っている人を放っておくことなんてできませんから。それに祖父が帰ってくれば、他にも何か力になってくれるかもしれません。さすがに村長をしているだけあって、祖父は顔が広いですし」 「そうか……なら、今はそのお言葉に甘えてもいいかな。正直今の状態で放り出されたら、俺は路頭に迷うしかない」 「もちろん。ヘウリスコ村村長の孫として、あなたを歓迎します。えっと……そう言えば、名前が無いと何てお呼びすればいいか分かりませんね」  と、ときに青年の名前が分からないことに気付いたグレイシィが、ちょっと困ったように首を傾げた。  確かに名前が無いと、生活面では不自由することも多いだろう。かと言って今のところ、青年の名前が分かるような手がかりは何も無い。 「そうだな。なら記憶が戻るまでは、あんたの呼びやすい名前で呼んでくれていいよ。俺もしばらくはその名前を名乗るから」 「えっ。わ、私が決めてしまっていいんですか?」 「ああ。俺、この辺りの名前事情は全然分からないし」 「そ、そう言われてみればそうですよね。うーん……それじゃあ、カイン。カインって名前はいかがですか?」 「カイン、か。まあ、悪くないな。だけど、何でカインなんだ?」 「カインは、昔うちで飼ってた犬の名前なんです。それなら忘れないし、呼びやすいかなって」 「は、はは……そうか、犬の名前、ね」 「それじゃあ本当のお名前が分かるまでは、カインって呼ばせていただきますね。よろしくお願いします、カイン」  どうやら人間に犬の名前を付けたことへの後ろめたさは無いらしく、グレイシィはそう言ってにこやかに微笑んだ。  その笑顔が、不思議と青年の心をほぐす。直前まで胸の中を駆け回っていた不安や焦りが無くなったわけではないが、それでも気持ちはいくらか楽になる。  ありがとう。短くそう伝えると、グレイシィは嬉しそうに笑った。  その日から、青年は〝カイン〟になった。
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