ふたり

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ふたり

 目を開けて、真っ先に見えた白が眩しかった。  意識がぼんやりとして、思考がうまく働かない。体が鉛になったように重い。  ここはどこだ。霧がかかったように霞む頭の中で、考えた。口の中に血の味が残っている。  そうだ。確か自分は街中で隣の中学の櫻井という不良に呼び止められ、存在が気に食わないという理由でボコボコにされたのではなかったか。  誰とも群れず、いつも一人で超然としていた朔也の態度が、常にお山の大将を気取っている櫻井の目には何故か〝自分を馬鹿にしている〟と映ったらしい。  カワイソウな奴。櫻井の、いかにも頭の悪そうな因縁のつけ方を思い返すと、朔也の口元には自然、憐れみの笑みさえ浮かんだ。  てめえが生きてることが許せねえ。そうやって頭ごなしに相手の存在を否定すれば、否定された相手は無条件に逆上し、挑発に乗ってくると思ったようだ。  しかし朔也は、そんな櫻井の挑発を冷ややかに無視した。見ず知らずの他人にいくら罵倒を重ねられたところで、朔也は痛くも痒くも無かった。  てめえのその面が気に食わねえ。消えろ。死ね。幼い頃から実の父親にそんな罵声を浴びせられ、嵐のような暴力を振るわれ続けてきた朔也にとって、櫻井の安い挑発など路傍で犬が吠えているのと同じだった。  ゆえにいちいち耳を貸すのも馬鹿らしく、何やら長々しい口上を述べていた櫻井の前を素通りしたのだが、それが更に相手の神経を逆撫でしたらしい。  結果、朔也は人目につかない路地裏へ引きずり込まれ、そこで複数人からの暴行を受けた。  だから何だ、という程度の感想しか朔也にはない。向こうは癇に障る相手を思う存分殴ることができて勝手に満足しているのだろうが、朔也は誰を殴ろうが殴られようが、そんなことはどうでも良かった。  ただ殴られたから殴り、殴ったから殴られただけだ。そこに余計な感情など無い。怒り、怯え、悲しみ、悔しさ。そういう心の働きは、子供の頃から受け続けてきた父親からの暴力で摩耗し、いつしか消えた。 「――あ、朔也君。目を覚ましたのね」  ところがそのとき、俄然横合いからスライドドアの開く音が聞こえ、覚えのある声が朔也の鼓膜を震わせた。  途端に、それまでぼんやりと宙を漂っていた思考が現実へと引き戻される。枕に頭を預けたまま振り向いた先に見えたのは、父親のケバい再婚相手が無理矢理朔也を押し付けていった相手――藤崎美世だ。 「良かったあ。具合はどう? どこか痛む所は無い?」 「……何であんたがここにいんだよ」 「何でって、私が救急車を呼んだからに決まってるじゃない。ちょっと待ってて。今、お医者さん呼んでくるから」 「――余計なことすんじゃねえよ」  買い物に行っていたのか、病院の売店のものと思しいビニール袋を椅子に置いた美世の動きが、ぴたりと止まった。  そのときにはもう、朔也は美世の方を向いていない。視線は天井を這い、やがてベッドの右手にある大きな窓の外へと向かう。 「あんたの世話にはならねえっつったろ。急に出てきて姉貴面してんじゃねえよ。俺みたいな〝かわいくないガキ〟の面倒なんか見たくねえって言ってたくせに、今更善人ぶってんじゃねえっつーの」 「――うん、ごめんね」 「は?」 「だから、ごめんって。あのときは私も母親にムカつきすぎて、最ッ高にイライラしてたから、君の気持ちにまで頭が回らなかった。本当に大人げなかったと思ってる。ごめん」 「……何だよそれ」 「分っかんないかなあ。要するに、お互い過去のことは水に流して仲良くやりましょうって言ってんの。私達、これから姉弟としてやってくわけだしさ」 「だから、いきなり出てきて姉貴面すんなっつってんだろ。俺、あんたとあの家で暮らすつもりなんてねーから」 「じゃあ、これからどうやって生きてくの? 社会の仕組みも世間の厳しさも何にも知らない中学生の分際で、本当に一人で生きてけると思ってんの? それなら今回の治療費、全額自分で払ってくれる? 保険証無いから、すごい額の請求になると思うけど」 「……」 「それが無理なら、君のお父さんをここに呼んで払ってもらうことになるわね。他に家族もいないみたいだし、君の自宅の連絡先は警察か学校に問い合わせればすぐに分かるでしょ。えーと、確か一中の電話番号は……」 「……やめろ」 「何?」 「やめろっつってんだよ! あんなクソジジイに頼るくらいなら、死んだ方がマシだ!」 「じゃあどうするの? 自分で全額払えるの?」 「……」 「払えるわけないわよね。だってまだ中学生だもの」  ふう、と一つため息をつき、美世はスキニーパンツのポケットから取り出した二つ折りの携帯をぱちんと閉じた。そうして先刻置いたばかりのビニール袋を脇に除け、体を起こして俯いた朔也の横に腰を下ろす。 「ねえ、朔也君。今日からあの家で、私と一緒に暮らしましょう」 「……」 「確かに私達は、昨日までお互いの顔も知らない〝他人〟だった。だけど今は違う。お互いの顔も名前も、性格も境遇も、ちょっとずつだけど分かってきた。なら、私達はもう〝他人〟じゃない。これからは自分達の心の持ちようで、〝友達〟にも〝家族〟にもなれる。いくらでも助け合えるの。それなら身寄りの無い者同士、お互いに支え合って生きていった方がいいと思わない?」 「だって、ひとりは寂しいもの」  ひとりは寂しい。そのあまりにも単純で、あまりにも飾り気の無い言葉が、朔也の胸に深く刺さった。  途端に何故か涙が溢れてくる。自分でも訳が分からないまま泣きじゃくり、どうにもならない嗚咽を零す。  寂しかった。美世の言葉に貫かれた傷の奥から、何かがそう泣き叫んでいた。それはきっと、心の声だ。心など、疾うの昔に死んだと思っていた。殺したと思っていた。されど心は生きていた。存在を忘れ去られた孤独の底で、寂しい、寂しいと泣いていた。  その心の声を、美世の言葉が掬い上げたのだ。自分は誰かがそうしてくれるのを待ち望み、同時に諦めていたような気がする。 「朔也君」  美世の声が耳元で聞こえた。これまで朔也が聞いたどんな声より優しい声だった。  美世の腕が、温もりが、そっと朔也を包み込んでくる。  その日から、朔也は美世の弟になった。  たった一人の家族になった。
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