これも出会い

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これも出会い

 けたたましいチャイムの音が、無遠慮に美世を叩き起こした。  目を開けた先の暗闇に眉をしかめ、枕元にあるはずの携帯を手探りで探す。あった。サイドボタンを押し、カバーのサブディスプレイに時計を表示する。午前一時。真夜中だ。  こんな時間に一体誰がと思いながら、美世は布団の上に体を起こした。季節は夏で、薄い布団を一枚かけて眠っていたのだが、起きてみると意外に肌寒い。  そこで美世は、明朝会社に着ていこうと出しておいたサンシャインイエローのカーディガンをハンガーから外し、それを羽織って部屋を出た。  その間にもチャイムは止むことなく鳴り響いている。こんな夜中にこれだけチャイムが鳴りまくったら、近所にまで迷惑をかけてしまうのではないかと不安になるほどの勢いだ。  一体誰の仕業なのか。広い一軒家の廊下を走りながら、間断無く鳴り響くチャイムの音に美世は微かな苛立ちを覚え始めていた。  こんな時間にこんな非常識な真似をするような人間は、美世の知り合いにはいない。だとすれば家を間違えた酔っ払いでも来たのだろうか。念のため手には携帯を握り締め、いつでも助けを呼べる心構えは作っておく。  美世が一人で暮らす和風住宅の玄関は、家の南側にあった。元は美世の祖母が一人で住んでいた家で、美世は六歳のとき、その祖母のもとへ預けられたのだ。  しかしあれは〝預けられた〟と言うより〝捨てられた〟のだと美世は思っていた。自分をこの家に置いていった母親とは、もう何年も会っていない。  母は美世が六歳になるまでの間に二度も離婚し、その後再婚の邪魔になるからと言って美世を祖母へと押し付けていった。祖母がそんな美世を煙たからず、むしろ母親以上の愛情を込めて育ててくれたことが美世にとっての救いだったが、その祖母も今年の二月に他界した。  以来美世はこの家に一人で生活している。若い女の一人暮らしということで、訪問者に対しては用心に用心を重ねるようになっていた。いざとなれば、玄関には痴漢撃退用の催涙スプレーも置いてある。美世は玄関に出るなり、そのスプレーをとっさに手に取った。 「どちら様ですか?」  玄関の明かりをつけ、引き戸越しに外へと声をかける。鍵はまだ開けなかった。  美世の家の玄関は、内と外に設けられた縦格子の間に磨りガラスを挟んだものが戸になっている。その磨りガラス越しに、玄関の向こうに立った人影がうっすらと透けて見える。  美世がその人影にじっと目を凝らした矢先、不意にチャイムの音が止んだ。あれほどけたたましく鳴っていたチャイムが止んでしまうと、帰ってきた真夜中の静寂が、急に不気味に思えてくる。 「あたしだよ」  次いで聞こえたのは、覚えのある声だった。しかし美世は耳を疑い、数瞬その場に立ち尽くした。  まさか。そう思ったが、間違いない。――母の声だ。途端に足元から駆け上がってきた戸惑いが、美世を激しく動揺させる。 「あんた、美世でしょ? ちょっと、早く開けてくんない? 外、雨降ってんだけど」  今更やってきて何のつもりだ。そう思いながらも、美世は困惑のうちに玄関の鍵を開けていた。  最後に母・栄子(えいこ)の姿を見たのは、美世が高校に上がったばかりの頃だっただろうか。それまで美世の中にある母の記憶は、幼い頃、自分をこの家に置いていったときの後ろ姿のまま止まっていた。  だがそれから一度だけ、栄子がこの家を訪ねてきたことがあったのだ。それは美世が高校に入学した年の、春から夏へ季節が移り変わる頃のことだった。  しかしそのときも栄子は美世に会いに来たわけではなく、祖母に金の無心にやってきただけだった。応対に出た自分の娘には見向きもせず、いきなり家に上がり込んでくるや、激しい口論の末に祖母から金を巻き上げていったのだ。  あれから既に五年の月日が経ち、美世から母親へ向かう感情はどす黒い嫌悪だけになっていた。だのにあっさりと鍵を開けてしまったのは、幼い頃心に強く抱いた、母に会いたいという思いが未だ残っていたせいなのかもしれない。  しまった、と思ったときにはもう遅かった。ガラリと音を立てて戸が開き、その向こうから派手な赤のジャケットを着た女が無遠慮に乗り込んでくる。 「おかあ、さん……」 「あー、濡れた、最悪。あんた、出てくんのが遅いんだよ。ガキの頃から鈍臭い奴だったけど、未だにそうなんだね」  久しぶり、の挨拶も無く、栄子は玄関へ上がり込むなり水滴を払いながら悪態をついた。  そんな栄子の振る舞いが、美世の中にたちまち嫌悪感を蘇らせていく。五年前に覚えたのと同じ憎悪の念だ。母親がこういう女だと分かっていながら迎え入れてしまった自分にまで、次第に腹が立ってくる。 「こんな夜中に一体何の用? いくら自分の実家だからって、非常識にも程があるんじゃないの?」  その苛立ちをふんだんに孕んだ言葉を、美世は栄子に叩きつけた。  この女は、自分の母親などではない。赤の他人だ。そう思い込むことで、自分の中に居残る厄介な感情ごと栄子を追い払ってしまおうとする。 「はあ? あんた、それが久しぶりに会う母親に対する態度? つーかこんだけ濡れてんだから、気利かせてタオルの一枚くらい持ってきなさいよ、使えない」 「悪いけど、私はあんたのこと母親だなんて思ってないから。だいたい自分は母親の葬儀にも顔を出さなかったくせに、こんなときだけ母親面して偉そうなこと言わないでよ!」 「あ、やっぱりあのババア死んだんだ? なんか死んだらしいよって話は聞いてたけど、本当にくたばったのねぇ。あははっ、清々した」  美世は、またしても耳を疑った。対する栄子は何が楽しいのか、耳障りなほど甲高い声でけらけらと笑っている。  それが自分の母親に対する態度か。たった今栄子に言われたことを、そっくりそのまま怒鳴り返してやりたかった。  自分の生みの親が死んだと言うのに、栄子はそれを悲しむどころかむしろ喜んでさえいる。確かに祖母と栄子はお世辞にも仲がいい親子だとは言えなかったが、普通の人間ならばとてもそんな言葉は出てこないはずだ。 「それはそうと、今日はあんたに話があって来たのよ。ここじゃ何だから、茶の間で話しましょ」 「あっ……ちょ、ちょっと、勝手に上がらないで!」 「うっさいわね。ここはあたしの家なんだから、どうしようがあたしの勝手でしょ。――朔也、あんたもさっさと入りな」  ときに栄子が赤いハイヒールを脱ぎ捨てながら、背後を振り向いて言った。そこにある戸は未だ開け放たれたままで、雨の音が潸々と聞こえている。  そのとき、ちょうど戸の陰になった位置からふっと人影が現れ、美世は内心どきりとした。玄関の外が暗かったのと、まさか栄子の他にも訪問者がいるとは思ってもいなかったのとで、一瞬幽霊でも現れたのかと思ったのだ。  だが現れたのはもちろん幽霊などではなく、雨に濡れた一人の少年だった。中学生くらいの背格好で、今は濡れたライトブラウンの髪がぺったりと頭に張り付いてしまっている。  しかし何よりも美世が気になったのは、その少年の目の暗さだった。朔也、と呼ばれた少年は初対面の美世に目もくれず、挨拶もせず、ただむっつりと家の中へ入ってくる。 「美世、タオル」  と、美世がその少年の様子に気を取られているうちに、栄子は玄関を入ってすぐの茶の間へさっさと上がり込んでいた。そこから聞こえた単語を並べただけの偉そうな指図に苛立ちを覚えつつ、美世は一度風呂場へと駆けてゆく。  やがて二人分のバスタオルを手に茶の間へ行けば、栄子は濡れたジャケットを床に脱ぎ捨て、すっかりくつろいだ様子で壁際のソファに腰かけていた。そうして黒タイツに覆われた脚を大胆に組み、気怠そうに煙草を吹かしている。  煙草嫌いの美世は、それだけでこの母親が更に嫌いになりそうだった。が、煙草を吸うなと言ったところでこの女が大人しく言うことを聞くとは思えない。  ゆえにせめてもの当てつけとして、美世は一度栄子の前を素通りし、茶の間の隅にいた朔也へと先にタオルを差し出した。床に腰をついた朔也はそのタオルをちょっとだけ見上げると、あとは無言でそれを受け取り、濡れた髪を拭き始める。  愛想の無い子供だ。挨拶どころか礼の一つも言わないその少年を、美世はいささか呆れたような、嫌悪するような思いで見つめた。しかし同時に、この少年は一体誰なのだろうという疑問が徐々に頭をもたげてくる。  ――栄子がここへ連れてきたということは、まさか。そんな予感が胸を過ぎり、美世はぞっとして立ち尽くした。  が、ときに俄然、美世の腕の中からもう一枚のタオルが抜き取られる。「あっ」と声を上げて振り向けば、そこでは煙草を口に咥えた栄子が、奪ったタオルで赤茶けた髪を乱暴に拭き始めている。 「……それで、話って何」 「あたしね、今度また結婚することになったの。そこにいる朔也の父親とね」 「父親? ていうか、ヨウスケって人はどうなったのよ?」 「ヨウスケ?」 「前に、その人と再婚するためにお金が必要なんだとか言って、この家に乗り込んできたじゃない。それで、おばあちゃんから強引に何十万も奪っていって……」 「ああ、ヨウスケってあのヨウスケね。そんな昔の男、もう忘れたわよ。あんた、いつの話してんの?」  改めてソファに腰かけながらこともなげに言い、栄子はまたけらけらと笑った。その笑い声を聞いた途端、美世の中には再びどす黒い感情が渦巻き始める。  祖母にあれだけの迷惑をかけておきながら、別れた。忘れた。そう言って悪びれもしない栄子の態度が、美世にはとても信じられなかった。  この女は病気だ。さもなければ狂っている。あの優しかった祖母から一体何をどう間違えればこんな下劣な娘が生まれるのかと、二人の血縁関係を疑いたくなるほどだ。 「まあ、そんな話はどうでもいいわ。それで、今日からこの子をこの家に住まわせるから、これからはあんたが面倒を見てやってちょうだい」 「は?」 「洋則(ひろのり)が、再婚するならガキはいない方がいいって言うからさ。本当なら逃げたそいつの母親の所に預けたかったんだけど、洋則も母親の居場所は知らないって言うのよ。おまけに洋則の親はどっちももう死んでるし、他に預ける場所が無くてね。だからあたしが、わざわざここまで連れてきてやったってわけ」 「ちょ、ちょっと待ってよ。それでどうして私がこの子の面倒を見なきゃならないの? この子はそのヒロノリって人の子供で、あんたの子じゃないんでしょ?」 「そーだけど、洋則と結婚すればあたしの子供ってことになるじゃない。で、そうなれば朔也はあんたの弟でしょ? なら、姉貴のあんたがちゃんと世話してやってよ。あんたももういい大人だし、就職してそこそこの収入もあるみたいだしさ」  この女は一体何を言っているのだ。美世は数瞬、本気で栄子の言動が理解できなかった。  確かに栄子とその洋則という男が結婚すれば、朔也は栄子の息子ということになる。だとすれば朔也は美世の弟だ、という理屈も頭では分かる。  しかし実質的に見れば、美世にとって朔也は赤の他人だった。面識を持ったのも今日が初めてで、血の繋がりも無ければ彼の父親のことすら知らない。  そんな相手をいきなり弟だと言って押し付けられたところで、はいそうですかと素直に受け入れられるはずがなかった。そもそも美世は実の母親である栄子とさえ、ほとんど他人と言っていい関係でしかないのだ。  だのに栄子は、都合のいいときだけ美世を娘と呼び、筋の通らない理屈で面倒事を押し付けようとしている。その図太すぎる神経に、美世は眩暈さえ覚え始めた。  一体どんな育ち方をすれば、ここまで自己中心的な人間になれるのか。更に驚嘆すべきは、ここまで性格が破綻している女と付き合ってもいいという男が、世の中に何人もいるという事実だろう。 「悪いけど、そういうことなら他を当たって。私には赤の他人の子を養う義理なんて無いし、あんたの頼みなんか聞きたくもない。再婚の邪魔だからって私を捨てていったあげく、今まで顔も見にこなかったくせに、こんなときばっかり虫のいいこと言わないでよ。あんた、自分がどうかしてるって自覚は無いの?」 「はあ? 何、その被害妄想。あたしはあんたを捨てたんじゃなくて、あのババアに預けていっただけじゃないのよ。本当に捨てる気だったら川にでも捨ててるわ。それをわざわざ面倒見てくれる人の所に届けてやったのに、どうかしてるのはあんたの方でしょ? 少しは母親に感謝しなさいよ」 「母親? 男とヤッてたまたまできた子供を生むだけで〝母親〟になれるなら、そんなのサルでもできるわよ! ていうか、むしろサルの方があんたよりまともなんじゃない? サルだってちゃんと子育てはするし、母親は子供を守ろうとする。そんな当たり前のことも理解できないあんたはサル以下よ。本気で頭おかしいんじゃない?」  沸々と込み上げてきた怒りに任せ、美世はこれまで溜め込んでいた思いの丈をありのままぶちまけた。元々自分の母親がまともでないことは分かっていたが、ここまでくると本当に救いようの無い女に思えてくる。  が、次の瞬間、ぎろりとこちらを睨んだ栄子が、手にしていた煙草をいきなり放り投げた。それは放物線を描いて美世の頬に当たり、そのまま落下して胸元から寝間着の中へと転がり落ちていく。 「熱ッ!」  火の点いたままの煙草が服の中へ入り込み、美世は思わず悲鳴を上げた。とっさに寝間着の裾を掴み、ばさばさと上下に動かすことで煙草を外へ叩き出す。  そうして足元のカーペットへと落ちた煙草を、とっさに足で踏み消した。素足で踏んだために足の裏には痛みにも似た熱を感じたが、そうでもしなければ火事になってしまうと思ったのだ。 「ちょっと、いきなり何す――って、待ちなさいよ! どこ行くの!?」  次に美世が顔を上げたとき、それまで栄子が座っていたソファに彼女の姿は無かった。  それに気付いた美世が慌てて視線を走らせれば、栄子は床に投げ捨てていたはずのジャケットをいつの間にか肩にかけ、今にも茶の間を出ていこうとしている。 「それじゃ、朔也のことよろしくね。あとのことは全部あんたに任せるから」 「あ、あんた、人の話聞いてなかったの? 私はこの子の面倒を見るなんて一言も……!」 「どうしても嫌だって言うなら別にいいわよ。そのガキ、好きに追い出したらいいじゃない。ただ、間違っても洋則の所にはもう帰ってこないでね。あたしも前の女のガキと一緒に暮らすなんて御免だからさ」  最後に一度だけ朔也を顧みて、吐き捨てるように栄子は言った。その表情はさながら犯罪者のように冷たく、美世は図らずもぞっとする。  それきり栄子はこちらを振り返ることも無く、さっさと茶の間を出ていった。玄関の戸が乱暴に開け閉てされる音が聞こえ、ハイヒール特有の足音が戛々と遠ざかっていく。  取り残された美世はしばしの間、茫然とその場に立ち尽くしていた。栄子を追いかけた方がいいのではないか、という思考も微かに脳裏を過ぎったが、今はもうその気力さえ湧いてこない。  不快な煙草の臭いだけが、いつまでも美世にまとわりついていた。  朔也は依然茶の間の隅に腰を下ろしたまま、どこか遠い所を見つめている。
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