ひとり

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ひとり

 美世は、二階の角部屋の前で悩んでいた。  目の前にある引き戸の向こうには昨夜、母・栄子が置いていった〝弟〟がいる。  腹立ち紛れに頭頂の髪を何度も引っ張りながら、これで何度目になるか分からないため息を、美世は〝弟〟に気取られぬよう小さく吐き出した。体が怠い。昨夜はあの事件の後、あまりにも理不尽な栄子の暴挙に腹が立ちすぎて、ほとんど眠れなかったのだ。  何故、あんな女が自分の母親なのだろう。そう思うと悔しさと惨めさが混ざり合った感情が胸に込み上げ、涙が止まらなかった。お陰で目元がすっかり腫れてしまい、我ながら悲惨な顔になっている。  こんな顔で出社するくらいならば、いっそのこと仕事を休んでしまいたい。だがそうなれば自分は、目下夏休みの真っ最中だという〝弟〟と顔を突き合わせながら一日を過ごさなければならないのではないか。それだけは耐えられない、という一心が、美世にいつもどおりの出勤を決意させる。  問題は、自分が仕事に出ている間この家に残していくことになる〝弟〟のことだった。昨晩本人から辛うじて聞き出せた情報によれば、〝弟〟の名前は渡瀬(わたせ)朔也、美世とは八歳差の十三歳で、今年の春に地元の中学校へ入学したばかりらしい。  通っている中学校の名前を聞くと、この家がある地区の隣の学区の学校だった。となれば転校、もしくは越境通学の手続きを取らねばならないだろうが、そのためには一体何をどうすれば良いのか、今の美世にはさっぱり分からない。  そもそも昨夜初めて顔を合わせた赤の他人に〝姉弟〟として接することなど、美世にはとてもできそうになかった。朔也は言わば、美世のテリトリーに突如侵入してきた異物だ。それを受け入れ、更に養っていけなどと言われたところで、そんな話をすんなり飲み込める人間が果たしてこの世にいるのだろうか。  かと言って栄子が言っていたように、嫌ならば追い出せばいい、と簡単に決断できないことも美世を大いに悩ませていた。昨晩の話を聞いた限りでは、朔也は実の父親やその再婚相手である栄子に疎まれ、家を追い出されたものと思しい。  そうして帰るべき場所を失った少年を、うちでは養えないから出ていけ、と追い払うのはさすがに残酷すぎる選択だった。生憎美世には、迷わずその選択肢を選び取れるほどの非情さは備わっていない。だからこそこうして悩んでいる。  とりあえず今日のところは、大人しくこの家で留守番をしていてもらうしかなかった。赤の他人を自分の家に一人残していくのはあらゆる意味で不安だったが、寝不足の頭で考えられるのはそこまでで、それ以上の名案など浮かびそうにない。  意を決し、美世は一つ深呼吸をして、目の前の引き戸に手をかけた。昨夜のあまりに無愛想な少年の態度を思うとできることなら口も利きたくなかったが、いつまでも悩んでいては会社に遅刻してしまう。 「朔也君、入るよ」  一応一言声をかけ、思い切って戸を開けた。そこは元々客間として使われていた部屋だ。  部屋の広さは八畳ほどで、中には客を泊める際の布団が二組用意されているだけだった。そのうちの一方が今、畳の敷き詰められた部屋の真ん中に敷かれ、こんもりと小さな山を作っている。  部屋の中が静まり返っていたので何となく予想はしていたが、朔也はまだ布団の中にいた。時計は既に朝の八時を刻もうとしているのに、朔也は頭まで布団を被り、起き出す気配は微塵も無い。 「朔也君、朝だよ。朝食、作って茶の間に置いてあるんだけど」 「……」 「私、これから仕事に行かなきゃならないから。隣町の小さな建設会社で総務をやってるの。帰りはたぶん、七時過ぎになると思う」 「……」 「夜ごはんは、それからでもいいわよね。なるべく早く帰ってくるようにするから。昼ごはんは、悪いんだけど買ってきて食べてくれる? この家を出て、左に真っ直ぐ行った先にコンビニがあるの。お金は下に置いていくから」 「……要らねえ」 「え?」 「金も飯も要らねえ。心配しなくても、俺、あんたの世話にはなんないから。勝手に仕事でも何でも行けよ」  くぐもった声が聞こえ、次いでごそごそと布団が動いた。どうやら中で朔也が寝返りを打ったらしく、枕のある位置に少しだけ髪が覗く。美世に背を向けるように動いたようだ。それを知った美世は異様に腹が立ち、かっと頬が上気するのを自覚した。 「あっそ。じゃあ好きにすれば」  と吐き捨てたいのを何とか堪え、しかしついいつもより乱暴に戸を閉めてしまう。 「かわいくないガキ」  思わず、声に出してそう呟いていた。怒りは未だ美世の胸中でのたうち回り、寝不足の頭が内側から熱を帯びていくような感覚に襲われる。  人がせっかく親切にしてやってるのに。こっちだって見ず知らずの生意気なガキの世話なんてしたくないわよ。それでも一応気を遣って朝ごはんまで作ってあげたのに、お礼の一つも言えないの? さすが、親が親なら子も子よね。もう知らない。絶対にあんな奴の面倒なんか見てやらない。私の世話にはならないって言うなら、さっさとこの家を出ていきなさいよ。そしてそのまま野垂れ死ねばいい。どうなったって私には関係無いわ。あいつが自分で言い出したことなんだから。  心の中で一気にそう捲し立て、自分の部屋から準備の済んだ鞄だけを持ち出すと、美世は足取りも荒く階段を下りた。そうしてそのまま玄関へ向かったところで、茶の間の卓に用意された朔也の分の朝食が目に入る。  途端に美世の中の苛立ちはますます膨れ上がり、茶の間へ飛び込んですべての料理を台所へ運んだ。そうして乱暴にラップを外し、皿の上のものを一つ残らず三角コーナーへと叩き込む。  かくしてただの生ゴミと化した朝食達を眺めていると、不意に涙が溢れてきた。美世はそれが零れる前に拭い、再び鞄を引っ掴んで家を出る。 「どうしたの、藤崎(ふじさき)さん? 目、腫れてるよ?」  それから三十分ほどかけて出社した職場では、案の定上司や同僚に腫れた目の心配をされた。美世はそれを笑って受け流し、昨日映画を見てたら号泣しちゃって、と当たり障りの無い言い訳を返しておく。  昨夜の出来事や母のことなど、とても勤め先の知り合いには話せなかった。そもそも美世は、入社当初から両親は既に他界していると周囲に話してきたので、実は母親は生きている、などと今更打ち明けることもできない。  その日は一日ろくに寝ていないこともあり、仕事はほとんど手につかなかった。明日は休日なので今日中に片付けておきたい仕事がいくつかあったのだが、昨夜のことやこれからのことを思うと気が鬱ぎ、度々手が止まってしまう。  結局片付けたかった仕事の一つも終えられないまま定時を迎え、美世はいつもどおりに退社した。週末ということもあり、いっそ親しい同僚を誘って酒を飲みにでも行きたかったが、今酔ったら嫌なことを忘れるどころか、すべてを吐き出してしまうような気がする。  会社から歩いて数分の駅で電車に乗り、帰路に就いた。高校を卒業してから三年近く見続けてきたいつもの景色が、目の前を次々と流れていく。  しかし美世の心には暗澹としたものが垂れ込めたまま、一向に日常へ溶け込むことはなかった。電車に乗っている間は窓の向こうに沈む夕日をぼうっと眺めていただけで、他人には魂の抜けた脱け殻のように見えたに違いない。  自宅の最寄り駅で下りた後、コンビニに寄り、弁当と飲み物を買った。もちろん自分の分だけだ。今日はもう、帰って自炊するだけの気力は無い。 「ただいま」  ようやく自宅に帰り着き、美世は無意識のうちにそう声を上げた。自分が帰宅したことを、朔也に知らせるためではない。祖母が生きていた頃からの癖なのだ。  だが玄関をくぐって靴を脱ぎ始めたところで、美世ははたと気が付いた。たった今、自分は何気無く玄関から入ってきたが、いつものように〝鍵を開ける〟という動作をしていないのではないか。  だとしたらおかしな話だった。美世は確かに、今朝も出勤時にはしっかりと鍵をかけた記憶があった。だのに鍵が開いていたということは、何者かが美世に代わって鍵を開けたのだ。思い当たる人物は、今のところ一人しかいない。 「朔也君?」  玄関の右側正面にある階段へ向かって大声を上げ、美世は朔也からの反応を待った。返事は無い。とっさに見回した玄関の靴脱ぎ場からは、なるほど朔也の靴が消えている。  念のため二階に向かい、昨晩朔也を泊めた部屋を覗いた。やはり朔也の姿は無い。彼が使っていた布団も意外と律儀に畳まれて、元の場所へと戻っている。 「何だ。本当に出ていったんだ」  今までどおり空になった部屋を見渡し、美世は拍子抜けした気分でひとりごちた。ただ単に外出しているだけという可能性も無いわけではないが、今朝のあの様子から考えると、出ていったのだと解釈した方が納得できる。  どこへ行ったんだろう。無人になった部屋の真ん中で、美世はしばし考えた。自分から出ていってくれたことは有り難いが、あの少年に行く宛などあったのか。  昨夜のあの様子では元居た家にはとても戻れないだろうし、かと言って他に頼れる親戚などいないというようなことを、栄子が話していたような気がする。 (まあ、でも、あんな子でも友達の一人くらいいるわよね。たぶん、その友達の所にでも行ったんでしょう)  そう考えて納得したところで、美世は不意に心が軽くなったのを感じた。つい先程まであれほど暗い気持ちを抱いていたのが嘘のようだ。これでまた、自分は今までどおりの日常に還ることができる。  その喜びに心が躍り、「やった!」と美世は両手を天井へ向け突き上げた。同時に、こんなことなら今夜も自炊すれば良かった、という思いが胸裏を過ぎる。しかし買ってきてしまったものはしょうがないので、今夜の夕食は味気無いコンビニ弁当だ。  明日は休みだし、自分の好きなものを好きなだけ作って食べよう、と思いながら、美世はその日の夕飯を終え、いつもどおりの眠りに就いた。結局夜になっても朔也は帰宅せず、やはり彼はこの家を出ていったのだ、と美世は確信する。  そこから先のこと――朔也がどこへ行ったのかとか、本当にこれで良かったのかというようなことは、考えないことにした。  自分はこのまま、今までどおりの日常に戻るのだ。煩わしい思いはしたくない。今は一日でも早く、昨夜の出来事を忘れたい。  しかしその晩、美世は夢を見た。十五年前、母に連れられてこの家へ来たときの夢だった。あの日も栄子は、出迎えた祖母と口論をしていた。祖父は栄子がまだ幼かった頃に亡くなったらしく、美世は写真でしか顔を見たことがない。  あんたとはとっくに親子の縁を切ったんだよ。そのあんたの娘を、どうして私が面倒見なきゃいけないんだい。気の強かった祖母は初め、そう言って栄子の要求を突っぱねようとしていた。幼かった美世には、母と祖母が一体何を言い争っているのか、その話の半分も理解することができなかった。  結局、栄子は美世をこの家に置いて出ていった。一時間以上にも渡る口論の後、玄関へ向かった栄子を追いかけようとして、ついてくんな、と怒鳴られたことを今でもはっきりと覚えている。  その意味が理解できず、茫然と立ち尽くした美世の目の前で、ぴしゃりと戸が閉じられた。この広い世界でたった一人きりになってしまったような、漠然とした孤独感が美世を襲った。  おかあさん。信じられず、玄関の向こうに消えた母を呼んだ。おかあさん。それを聞いた母が、戻ってくることは無かった。  まって、おかあさん。おいてかないで。声の限りにそう叫んだとき、初めて涙が溢れた。そうして泣きじゃくる美世を優しく抱き寄せてくれたのは、その日初めて出会った見知らぬ老婆だった。  夢から覚めたとき、美世の頬は涙で濡れていた。夢の中で自分を抱き締めてくれた祖母の温もりが、まだ肌に残っているような気がした。  カーテンを閉めた窓の外から、日の光が注いでいる。いつも枕元に置いている携帯で時間を確かめた。午前九時三十二分。凄まじい後悔が美世を襲った。  自分は一体、何をしていたのだろう。寝間着を脱ぎ捨てながら思う。実の親に捨てられる悲しみ。居場所を失った絶望。そのすべてを自分は知っているではないか。だのに自分は、十五年前の自分とまったく同じ状況に置かれた朔也を疎ましく思うどころか、冷たく突き放してしまった。  きっと、あの少年を傷つけた。深く傷つけた。襟付きの薄いシャツに腕を通しながら、美世は悔悟に胸を焼かれた。  朔也が十五年前の美世と決定的に違うのは、既に大人達の駆け引きをある程度理解できる年齢に達しているということだ。その朔也は昨晩の美世と栄子のやりとりを、どんな思いで聞いていたのか。想像すると、胸が張り裂けそうになる。  今朝の夢はきっと、こんな自分を祖母が叱りに来たのだ。そう思った。  今度は自分が、朔也にとっての〝祖母〟になってやるべきだったのだ。祖母はあの日、栄子と口論こそしていたものの、最後には美世の存在を受け入れ、娘のように愛してくれた。 (ごめんね、おばあちゃん。ごめんね……)  心の中で何度も祖母に謝りながら、美世は化粧もせずに家を出た。宛など無いが、今はとにかく朔也を探さなければならない。会って、謝らなければならない。  指折り数えるほどしか言葉を交わしたことがない少年の行きそうな場所を、懸命に考えた。朔也は本当に友人の所へ行ったのだろうか?  もし友人なんていなかったら? 自分が朔也ならどこへ行く? 中学生でも、あまり金銭的余裕が無くても、ひとまず一晩の雨露を凌げそうな場所。  そうした場所が溢れているとしたら、この町の繁華街の方だろう。町の中心部にある大きな駅の周辺なら、二十四時間営業のカラオケボックスやネットカフェが無数に存在している。  そこに中学生が一人で入り込むことができるかどうかは不明だが、抜け穴がまったく無いということは無いはずだ。髪を染めた朔也は幾分か大人びて見えるので、高校生くらいと判断され、入店を許可されるということも有り得なくはない。  美世はそのまま電車に飛び乗り、普段は飲み会や衣服の買い出しなどでしか行かない町の中心部へと向かった。せめて昨日のうちに朔也の情報をもっと引き出しておけば良かったと後悔したが、今更嘆いたところで遅い。  やがて目的の駅に着くと、美世はひとまず自分が知っているカラオケ店がある方角へと歩き始めた。確かそのカラオケ店の近隣には、ネットカフェや漫画喫茶などが入ったビルも建ち並んでいたような気がする。  とにかく、朔也を見つけ出すまでは帰らない。そう心に誓って、駅の周辺を歩き回った。夏の熱い日射しが、じりじりと美世の肌に降り注ぐ。美世は時折汗を拭い、途中飲み物を買いに入ったコンビニで、セミロングのキャラメルヘアーを一つに結ぶ。 「――なあ、さっきのさ、あれやばくね? オレらフツーにスルーしてきたけどさ、ボコられてた奴死にそうだったじゃん。ああいうのって、警察とか呼んだ方がいいんじゃね?」 「バカ、やめとけよ。あれ、二中の櫻井(さくらい)のグループだぜ。警察なんか呼んだのバレたら、今度はおれらが何されるか分かんねーって」 「えー。けどあの連中、そんなにやばいの?」 「はあ? お前、知らねーの? 二中(にちゅう)の櫻井っつったらこの辺じゃ相当やばいっつーの。こないだも柿沼(かきぬま)のグループと喧嘩して、櫻井が柿沼側のメンバーを刺したとか刺さないとか噂になってたし……だいたいさっきリンチされてた奴、あれ、一中(いっちゅう)の渡瀬だぜ。あいつも色んなとこで問題起こしまくって、この辺のやばい奴らに目つけられてるって話だし、とにかく関わんねー方がいいって」  ――渡瀬。その名前が聞こえた刹那、コンビニの洗面台で髪を結っていた美世は、はっと背後を顧みた。  軽快な入店のメロディーと共にやってきたのは、朔也と同じ年頃の二人組だ。一人はデニム生地の上着を纏い、もう一人は柄入りの赤い開襟シャツを着ている。  一中の渡瀬。その二人の会話の中に出た名前を、美世はもう一度反芻した。〝一中〟というのはこの町にある公立中学の略称だ。市立第一中学校。朔也が通っていると言っていた学校の名と一致する。 「――ねえ、君達! その渡瀬って子、どこにいたのか教えて!」  気が付いたときには二人組の少年に駆け寄り、勢い込んでそう尋ねていた。  突然見知らぬ相手に声をかけられた二人組は、びっくりして固まっている。そうして困惑顔を見合わせたまま、なかなか答えようとしない二人の反応がもどかしく、美世は朔也の名を出していた赤いシャツの少年の肩を掴んで言う。 「お願い、急いでるの。朔也の居場所を教えて!」 「あ……え、えっと、渡瀬なら、そこからアーケードに入った先にある、バーガーショップの裏にいました。バーガーショップの横の道に入って、そこからもうちょっと行った先の……」 「分かった、ありがとう」  しどろもどろになって答えた少年に礼を言い、美世は冷房の効いたコンビニを飛び出した。途端に空から降り注ぐ太陽の熱視線が美世の肌を突き刺してくる。  しかし駆け出した美世は、もはや暑さなど忘れていた。道行く人々の注目が集まる中、髪を振り乱し、先程の少年から聞いた路地へ飛び込んだ。  バーガーショップの裏。確かにそこへ続く更に細い路地がある。息を切らしながらその路地を覗いた。  誰かいる。一人だけだ。薄暗い路地の真ん中で、俯せに倒れている。 「朔也君……!」  愕然と名を呼びながら、倒れている朔也に駆け寄った。この昼間から朔也をリンチしていたという少年達の姿は既に無い。 「ひどい……こんな……」  倒れた朔也は、意識を失っていた。口から血を流し、顔は無惨に腫れ、まるで別人のようになってしまっている。  その他にも、体中を殴られたような形跡があった。何度大声で呼びかけても、朔也からの返事は無い。 「朔也君……ごめん……本当にごめん……!」  朔也の体を抱き上げ、謝りながら、身を屈めて美世は泣いた。  同時に誓う。もう二度と彼を一人にはしない。  今度は自分が祖母のように、この子を愛してやる番だ。
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