『さ』

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『さ』

 リトは硬い岩の上に座り、膝を抱えて化け物の話を聞いていた。  化け物の抱える……激しいまでのさびしさを、どうにかしてあげたいと、思ったけれど。  リトにできることなどひとつもなくて。  せめてやさしい言葉をかけてあげたかった。……カイリの代わりに。  神さま、とリトは唇を動かした。  喉から漏れるのはヒューという呼吸音だけで、声の出せぬ潰れた喉を、リトは呪った。  化け物の目が動き、リトをチラと見た。  神さま。僕は神さまと一緒に居ます。  リトは化け物へにじり寄ると、ウロコの肌に触れないように、そっと服の裾を握った。  獅子の顔が、呆れたような吐息をこぼした。 「おまえはなにを聞いてたんだ。おまえたち人間は、陽の射さぬここでは生きられない。自分で歩ける内に、早く出て行けと言ってるんだ」  いいえ、とリトは首を振った。  いいえ。  だってリトがここを去ったら。  化け物は、またひとりになってしまう。  ひとり、きりに。  リトは泣きそうになりながら、服を握る手に必死にちからを込めた。  化け物が、ひそやかに、さざ波のような笑いを漏らした。 「リト」  低く、深みのある声が。  このとき初めて、リトの名を象った。  リトが顔を上げると、化け物の瞳がやさしく細められた。 「リト。おまえはやさしい子だ。地上に戻って、しあわせになりなさい」  化け物のてのひらが。  やわらかく、リトの頭の上に乗せられた。  鋭い爪でリトを傷つけぬように、ゆっくりと、それが動いて。  リトの赤毛を、くしけずる。  冷えた指の感触に、リトはぼろりと涙を落とした。  さびしくて、やさしくて、不自由な神さま。  彼のために、なにかをしたい。  リトはこれまで、誰にも必要とされてこなかったから。いつ死んでもいいような、軽いいのちだったから。  それを、化け物のために使いたいと、思った。  離れがたい、と感じたリトのこころが伝わったのか、化け物が、 「あと三日だ」  と口にした。 「一週間の約束を、三日、延長してやる。その間に出てゆく準備をしろよ」  爪の、丸みを帯びた背の部分で、リトの頬を撫でて。  化け物の手が、静かに離れた。  うろこの生えたその手は、温度がないはずなのに。  触れていない方が、寒かった。  それからの三日は、穏やかであった。  化け物のてのひらは、他愛なくリトに触れてきたし、リトも彼の頭部の毛づくろいを手伝った。  リトを見る化け物の瞳は、やさしい。  さらさらと、砂が崩れるように、ときが流れる。  それを止める術はない。  一度眠る度に、化け物と居られる時間が減ってゆく。時間が減った分、化け物への思慕は募る。  神さま。  神さま。  神さま。  僕をこのひとと一緒に居させてください。  もはや誰に祈って良いのかわからずに、リトは胸の中で繰り返した。  それでも別れの日は容赦なく訪れた。  時間の経過など、知ることのできる道具などないというのに。  化け物は正確にそれを把握していて。  三日目にはリトに、 「行きなさい」  と言って洞窟の奥を指さした。  リトは泣きながら首を横に振った。  けれど化け物は、今度は譲らなかった。  行きなさい、と繰り返され、リトは涙に濡れた顔を上げて、必死に唇を動かした。  また戻って来てもいいですか。ずっとここに居られないなら、太陽を浴びてからまた戻ってきます。僕は戻ってきます。だから待っていてください。  衝動的に語るリトの、唇の動きを読み切れなかった化け物が、一拍の間、押し黙った。  戻ってきます、とリトは再びそう告げた。  今度はゆっくりと。  唇を動かして。  化け物が、ほんの少し笑った。  獅子の頭が、ゆっくりと否定の形に動いて。 「俺はもう、約束はせぬ」  穏やかな声音が、そう言った。  リトは泣いた。  そのリトの頭を、化け物が抱き寄せた。  リトの頬が、彼の胸へと押し付けられる。  うろこの、手が。  ぎゅっと強く、巻き付いた。  か、神さまっ。  リトは狼狽えて叫んだ。喉からヒューと息が漏れる。  リトの肌の熱で、化け物のウロコが溶けた。  ぐしゅぐしゅと爛れてゆく肌から、リトは離れようともがいた。  けれど化け物は腕のちからは、強くて。  リトは。リトは……。  彼の首に、縋りついた。  獅子の頭部の、やわらかな毛に、頬を擦り付けて。  ウロコが傷つくのも構わずに抱きついた。  神さま。  神さま。  神さま。  唇だけで、繰り返す。  このさびしい神さまに。  どうかしあわせを。 「リト」  化け物の、手が、リトの頬に添えられて、上を向かされる。 「しあわせになれ」  そう囁いた、獅子の大きな口へと。  リトは伸びあがって口づけた。    それが、リトと化け物の、最初で最後の抱擁で。  最初で最後の、キスであった。 
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