『の』

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『の』

 逃げたのだ、と化け物は思った。  戻ってくると言ったカイリのあの言葉は嘘だった。  地上へ戻りますと馬鹿正直に告げれば、化け物が逆上してカイリを殺すとでも思ったのだろう。  だから、戻ってきます、と。  絵空事の約束を残して、カイリは去ったのだ。  怒りはなかった。  化け物の中に、怒りはなかった。  ただ、奇妙な喪失感だけが、胸の内に存在した。  化け物はひとりになった。  孤独には慣れている。洞窟の、暗さにも。静けさにも。冷たさにも。  けれど、カイリの使っていた炊事場の、燃料の燃えカスや、食器類を目にする度に、ないはずのこころが痛くなった。  化け物は二度とはそこへ足を踏み入れなかった。  そんな折だった。  再び、生贄が洞窟を訪れてきたのは。  化け物は驚いた。  生贄はもう要らぬ、ひとは食べぬと約束したのに、なぜまだ送られてくるのか……。  生贄は、恐怖に顔を歪めながらも、化け物へとなにかを差し出してきた。  それは、焼かれた肉と、血の滴る内臓であった。  お、お召し上がりください。  ぶるぶると震えながら、生贄が籠を差し出してくる。  馬鹿げた趣向だ、と化け物は思った。  手土産などなくても、もう生贄を食べる気はないというのに。  要らん、と化け物は答えた。  生贄はなお震え、へたり込みながらも懸命にそれを化け物へと掲げて、繰り返した。  お召し上がりください。お願いいたします。お召し上がりください。  化け物はうんざりとため息を吐き、籠の中身をひっくり返して、肉と内臓を頬張った。  久方ぶりの食事だったが、旨くもなんともない。ただ、食べたな、という感想であった。  あなたがいま食べたのは。  生贄が顔を覆い、啜り泣きを漏らしながら、化け物へとそれを告げた。  あなたがいま食べたのは、カイリの肉です、と。  化け物は一瞬、なにを言われたのかわからなくなった。  生贄が泣きながら言葉を繋いだ。  カイリは言いました。  あなたはもう生贄を欲していないと、教団の大人たちに言いました。  だから子どもを洞窟に送るのをやめてください、と。  けれど誰も本気にはしてはくれません。  カイリは教団に捕らえられました。  名誉ある生贄の立場を放棄し、自分の命惜しさに逃げ出した罰当たりだと、散々罵られ、言葉の撤回を求められました。  カイリは頷きませんでした。  あなたはやさしい化け物で、もうひとを食べる気などないと繰り返していました。  誰になにを言われても、カイリはその主張を貫きました。  教団は彼を処刑しました。  そして新しい生贄を選び、『これ』を持って、洞窟の奥に居るのが真実ひとを食う化け物であることをその目で見てくるが良いと言いました。  僕は大人の言うままに動いただけです。お願いです。僕を殺さないでください。  生贄の声がわんわんと洞窟に響く。  化け物は……恐ろしいほどの怒りに襲われていた。  岩肌に、思い切りこぶしを叩きつけた。ドーンという轟音が響き、生贄が飛びあがった。  カイリが死んでいた。教団に殺されていた。  込み上げてくる感情の、持って行き場がない。  化け物は壁を殴り続けた。  生贄が頭を抱え、地面に這いつくばる。  その、頼りない体を。  怒りのままに引き裂いてやろうと、鋭い爪を伸ばして……。  化け物は、動きを止めた。  ひとは殺さないと。  カイリと約束をしたから。  化け物の中に取り込まれたカイリの血肉が、殺すな、というように腹の底で騒ぐから。  化け物は、去りきらぬ怒りに身を震わせながらも、こぶしを納めて振り絞るように息を吐いた。  俺はもう、ひとは食べぬ。  ぽつりと、化け物は呟いた。  カイリのことを食べない、という約束は、破ってしまったから。  ひとは食べないという誓いだけは、この先もまもらなければならなかった。  ひとは、食べない。  自戒のために、繰り返して。  化け物は、泣いて怯えている生贄を、洞窟の更に奥の……地上へ繋がる出口へと、導いた。  かつて、カイリがそうしたように。  化け物は、これ以降、生贄を逃がし続けたのだった。
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