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花金にあんこう鍋と貴腐ワインを
「今日は花金だから、あんこう鍋を食べに行きましょう」
銀座にある行きつけの小料理屋では今月末まであんこう鍋が食べられる。
三月になり寒さが和らいできたものの寒の戻りで雪もぱらついた今日はどうしてもあんこう鍋が食べたくなり、昼休みにメールで彼を誘うと一緒に行ってくれるとのことで、有楽町で待ち合わせをすることにした。仕事を17時できっちり終わらせ有楽町に向かうと彼も定時で仕事を終わらせたのか、マリオン前で待っていてくれた。彼に手を振り小走りで近づく。そして、彼の手を取り銀座の小料理屋へ向かった。
あんこう鍋はそれはそれは美味で、口溶け柔らかな食感は頰が落ちる気がした。あんな見た目なのにどうして美味しいのか不思議で仕方がない。たらふく食べた後は長居はせずに、菊名にある私のマンションへ向かった。
家に帰りテレビをつけると音楽番組がやっていた。それを見ながらワインセラーに眠っていた貴腐ワインを開けた。とっておきの一本だったけれど、今日が誕生日とか、記念日とか、そういうのではなくて、ただ単に私たちの機嫌が良かったから、つい開けてしまったのだ。
一口飲むと普通のワインとは明らかに違う深い甘みが口に広がり口の中で転がした後、ゴクリと飲み込んだ。あぁ、これがあの小料理屋で出てきたら最高だと思うのだけれど、店主のこだわりで日本酒しか置いていないので仕方がない。ワイングラスを片手にソファーに体を預けると、彼もワイングラス片手に隣に座った。
彼は毎週金曜日に私の家に来る、いわゆる彼氏だ。彼が居酒屋で一人で呑んでいたところ、私が声をかけて、意気投合して付き合うことになった。すぐに別れるかと思っていたけれど、意外にもお互い居心地が良く付き合ってからもう半年経つ。ふと、隣に座る彼に目をやると笑顔をくれたので私も微笑み返すと照れたように顔を歪めた。
目の前のテレビでは、年代別に聴きたい曲のランキングが流れている。
「ねぇ、貴恵さんの一番好きなミスチルの曲は何?」
「えっとね、あれ、あのドラマの曲」
私が曲名をすぐに思い出せないでいると、彼が「待って、まだ言わないで。せーので言おう」と言った。なんとか思い出した私は「せーの!」と言う。
「Tomorrow never knows」「HANABI」
「えー、HANABIは最近過ぎない?」
「Tomorrow never knowsは名曲だけど、何のドラマの主題歌?」
「若者のすべて。あの頃のキムタクかっこよかったんだから」
「へぇー」
「じゃあ、B'zは?」
「せーのでいくよ?」
「せーの!」
「恋心」「ultra soul」
「恋心知らない……」
「嘘でしょう?」
「じゃあ、最後。好きなジャニーズは?」
「せーの!」
「SMAP」「嵐」
「全然合わないじゃん!」
あはは、とその時は笑いあったけど、明らかな世代の違いを感じていた。私と彼は10歳以上違うのだ。
話は合う方だと思ってはいたけれど、無理やり合わせてくれていただけかもしれないと不安がよぎる。
実はあんこうは嫌いだけど私が好きだからと言って我慢して食べ、ビールが好きなのにワインを飲み、サッカーが好きなのに野球観戦に付き合ってくれていたのかもしれない。
彼は平気でそんな事をしそうなくらい優しい。全てを私に合わせてくれる。きっと来週末までには、恋心をカラオケで練習してくるだろうし、嫌いな食べ物も克服する、野球選手だって選手名鑑をしれっと買ってくる、そんな事をするような人だ。
きっと私は愛されているのかもしれないし、これが純粋さというものなのかもしれない。
それでも、いつか同い年くらいの女の子が彼の目の前に現れて、その子の前では頑張って話を合わせる努力をしなくて良いと気付いてしまったら、きっと私から離れていくだろう。でも、その可能性はないだろうと彼の顔を見ていると思う。
「このワイン、貴恵さんみたい」
「なにそれ? カビ生えてるって事?」
「違う。複雑に甘いって事」
「あはは、ちょっと嬉しいかも」
この複雑さは三十代では、まだ出まい。
酔いが回ってきたのか、理由なき自信が湧き出てくる。
ひと通り酸いも甘いも乗り越えた。苦労もたくさんあった。体型だって年々ぽっちゃりが増してベイマックスのようだけれど、抱き心地が良くて大好きだと言ってくれる。
男はロリコンかマザコンに二分されると言うが、彼はマザコン側の男なのだ。
「好きよ」
そう言って彼を抱き寄せ、私の胸に顔を埋めさせた。こんな四十半ばを過ぎたおばさんが良いなんて、ついこの間まで童貞だった、いかにも彼らしい。なんでも言う事を聞いてくれて、私だけを見てくれる。そして、お金もそこそこ持っている。こんな男はなかなかいない。それに比べたら、見た目なんてどれだけブサイクでもいいのだ。男はあんこうと同じで見た目より中身だ。
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