名を呼ばれない竜

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名を呼ばれない竜

「蒼は、こんなに美しいのね」  卓上には、大きな絵巻物が広げられていた。それを赤い眼で紅蘭は眺めている。そっと西欧から伝わったというその絵巻物をなで、紅蘭は感嘆とため息をついた。  絵巻物には、美しい蒼い竜が描かれている。東洋のそれとは違う、皮膜を持つ羽を持った竜の姿が。蛇のような胴体をした龍と違い、西洋の竜はどっしりとした四肢を持っている。絵巻に描かれた竜の鱗は陽光を受け、美しく輝いていた。  けれど、この絵の中の竜に紅蘭が出会うことはない。 「逢いたいよ。蒼……」  絵巻物から視線を逸らし、紅蘭は玻璃の向こうに広がる空を見つめる。  雨をと、地上の人間たちが雨乞いを続ける。けれど、紅蘭の担当する地区ではいまだに一滴の雨すら降らない。  蒼い鱗は応えることない。それは、なによりも紅蘭を苦しめた。 「まだかい? まだ、竜は呼べないのかい? 紅蘭」  冷たい女性の声がする。そちらへと顔を向けると、玻璃の壁を背に伽藍仙人が紅蘭を見つめていた。  黒く結い上げた髪に銀の簪を幾重にも刺し、色とりどりの赤い衣に身を包んだ伽藍仙人は、玻璃のように美しい眼をぴたりと紅蘭に向けていた。 「申し訳ありません……」 「謝るようなことじゃないだろ。そもそも無理難題を押しつけたのは私だ」  しゃらりと銀の簪を鳴らしながら、伽藍仙人がこちらにやってくる。赤い紅をひいた唇を閉じて、彼女はおもむろに卓上に置かれた竜の鱗を手に取った。 「まだ、お目覚めではないみたいだね。お寝坊の竜さんは……」  苦笑しながら、彼女は竜の鱗に唇を寄せていた。ふっくらとした赤い唇が蒼い竜の鱗に触れようとした瞬間、紅蘭は叫んでいた。 「やめてっ」  玻璃のような眼を歪めて伽藍仙人が嗤う。 「何がいけないんだい? これは私のものだよ。お前のものじゃない」  歌うように伽藍仙人が告げる。その言葉に紅蘭は二の句が継げないでいた。そうだ、あの鱗は自分のものではない。蒼は、私のものではないのだ。  ひらりと伽藍仙人が衣を翻して体を回す。彼女は優美な仕草で手に持つ鱗を宙で振り、歌をうたい始めた。  龍呼びの歌だ。  その旋律は高く、低く、抑揚をつけて歌われる。龍の嘶きに似たその旋律に合せ、蝶のごとく蒼い鱗が宙を翻る。伽藍仙人が、しなをつくって紅蘭を流し見る。その妖艶な眼差しに導かれるように、紅蘭は伽藍仙人と共に舞っていた。舞えと、彼女が眼で合図をしたから。  高い女性の声音と、透明な少女の声音が重なり、一つの音を奏でていく。伽藍仙人は手に持つ蒼い鱗を、紅蘭へと差し出していた。  竜の鱗を頭上に掲げ、紅蘭は龍呼びの歌をうたう。  りんりんりん。  鱗が鳴る。かすかになる。  けれど、これ以上大きくはならない。  鱗が鳴るのは、竜が召喚に応じた証。これ以上大きくならなければ、竜はこの地にやってこない。  ――来て。来てよ、蒼  心の中で呼びつつづけても、愛しい竜はやってこない。紅蘭はとても悲しい気持ちになって、はらはらと涙を流していた。  どうしてだろう。蒼のために龍呼びの歌をうたうと、とても悲しくなるのだ。  悲しくて、どうしようもなくていつも歌うことをやめてしまう。それでも我慢して歌うが、蒼が応えてくれることはない。  ——来てよ。来てよ、蒼。ここは、寂しいよ……。  けれど、彼の名を呼んではいけない。そう、呼んではいけないのだ。  歌いながら、紅蘭は悲しさの原因を思い出していく。彼にそばにいてほしい。けれどそれは叶わぬこと。  彼をこの地に呼べば、きっと彼は死んでしまうから。  彼をここには呼べない。それを分かっていて、私は彼を呼ばなかった。
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