飛翔する目覚め

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飛翔する目覚め

 あぁ、呼ばれてしまったと紅蘭は涙を流す。彼女の姿は、曇天に覆われた空の中にあった。赤い衣を金魚の鱗のように翻して、紅蘭はゆらゆらと空を飛ぶ。  細長い稲光が彼女の周囲を取り巻いては、闇に沈む紅蘭の肌を蒼く照らした。  伽藍仙人はなぜ、このようにひどい仕打ちを自分にしたのだろうか。自分はただ、彼に会いたかっただけなのに。  自分が殺してしまった彼に。   太古より、名はその存在を縛るものとしてあり続ける。人知を超えた龍を名で縛ることは、その龍を支配することと同義なのだ。  名をつけられた龍は、名を授けた相手に仕えなければならない。  空を自由奔放にかけていた紅蘭にとって、それは残酷な仕打ちだった。自分を追いかけていた愛らしい少年に、まさかそんな力があるとは思わなかったのだ。  驚いた紅蘭は、稲光で彼を殺してしまった。  罪のない幼子を殺してしまった紅蘭は、伽藍仙人に救いを求めた。紅蘭に命を蘇らせる力はない。だが、伽藍仙人にはそれができると仲間の龍が教えてくれたのだ。  彼女は一枚の鱗に少年の魂を閉じ込め、彼が生き続けられるよう取り計らってくれた。  その見返りに紅蘭は記憶を消され、仙人見習いとして彼女に仕えることになったのだ。その彼女がなぜ、自分の記憶を揺り動かすことをしたのだろうか。救ってくれた少年を、今一度殺すような真似をしたのだろうか。 「お前が恋をしたからさ」  自分の思いに応えるように、伽藍仙人の声がする。  ひらひらと金魚のごとく衣の裾を翻し、彼女は宙に浮いていた。両手を広げ、彼女は紅蘭の周囲を旋回してみせる。 「魂をとどめるといってもそれには限界がある。いずれは他のものに生まれ変わるからね。私はそれを遅らせていたにすぎない。それにお前は、彼に縛れることを望んだ」 「どういうことです」 「彼に名をつけて縛ろうとしただろう? それはすなわち、彼に縛られたいということだ。共にいたいということだ」  記憶を失っていた自分は、彼の鱗に蒼と名前をつけた。美しい鱗がとても愛おしかった。夢の中の彼の眼にずっと見つめられたい気がしていた。 「お前は名で彼を縛った。だから、会いたければ呼べばいい。そこに、お前の求めるものはある」  玻璃の眼を細め伽藍仙人は笑ってみせる。彼女の言葉に、紅蘭は赤い眼を閉じて、唇を開いていた。 「蒼……」  愛しい彼の名を呼ぶ。  ずっとずっと、夢の中で彼の成長を見守っていた。記憶を封じられた自分は、彼が誰なのかもわからなかった。けれど、その眼の美しさに惹かれていたことは確かだ。  彼の名を呼んでようやく自分の想いを理解する。  そう、私は成長した彼に恋をしていたのだ。  そして彼は、竜として生まれ変わった。  眼を開ける。巨大な雷の柱が紅蘭の眼前に現れる。その中から、一頭の竜が現れた。  蒼い半透明の鱗を纏った竜は、空のように美しい眼を紅蘭に向けてくる。両翼の翼には黒い静脈が広がり、薄青の彼の皮膜を飾り立てていた。 「蒼っ!」  紅蘭の眼前が蒼い光に包まれる。雷鳴が耳朶に轟いて、自分が雷に撃たれたことが分かった。蒼い明滅する光の中で紅蘭の衣服ははじけ飛び、美しい少女の体躯は赤い龍へと転じていく。  赤サンゴのように煌めく鱗に、すっきりとした目鼻立ちの竜はそっと紅色の眼を開く。  眼前には、蒼い眼をしばたたかせる竜がいた。  龍と竜が鳴く。  その嘶きは高く空に響き渡り、暗い雨雲を放射状に散らしていく。  蒼い空が広がる。陽光が降り注ぎ、竜と龍の鱗を七色に輝かせる。二頭はお互いに顔を見合わせ、高く高く空へと昇っていく。  龍に戻った紅蘭は、後方にいる伽藍仙人を見つめる。まるで金魚の尾のように纏う衣を翻しながら、伽藍仙人は優しく微笑んでいた。
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