検死してください

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 警察医の仕事を終え、大学の研究室に戻って来た頃にはすでに午前零時を回り、小降りだった雨はザーザーと音を立て始めた。風も吹いているのか、窓ガラスに雨粒が当たってパチンパチンと鳴った。 部屋の中は普段と変わらずに薬臭く、少し前まで死体と向き合っていたために少々うんざりする。着古した白衣には、何処で付けたのか全く覚えの無い染みが模様のようにあり、そろそろ取り換え時であることを知らせていた。  だが、石塚准教授は言う。 「これがね、警察医っていうか、医者っていうか、准教授っていうか、研究者の勲章みたいなわけね。真っ白な白衣なんて、何もしてませんって感じだろう?」 「それなら、病院の奴らはどうするんですか?そんな不潔極まりない白衣なんて、だらしの無い医者の証拠みたいなものです」 「明日は解剖実習か・・・。ここは一つ、何か怖い話でも用意しておかないと」  自分の無精を指摘された石塚准教授は、わざとらしく雨が滴り落ちるのを見ながら、もう三日も洗っていないマグカップで入れたてのコーヒーを一口飲んだ。 「しかしあれだね、3月も終わりで、もう春なのに今日は寒い。あ、このカレンダー、新しい月にめくっておいてね。それより検案書、よろしく頼むよ」  話を振っておいて、話を飛ばさないで欲しい。 「わかりましたよ。でも間違って書いて、何かあった時は責任取れませんよ?俺、ついて行っただけですからね」 「何を言ってるんだ。君には責任を取れるほど権限がないじゃないか。僕がやっても、君がやっても、結局教授のせいなんだよ。若いくせに、気持ち軽く考えないと神経症になっちゃうよ?さ、わかったらさっさと始めてくれ」  ここまでいい加減になるには、一体どのぐらいの年月が必要になるのだろうか。これ以上、無駄話を続けると病院でのバイトにも響くので、言われた通り検案書の作成に着手することにした。  その時である。突然、バタンと勢いよくドアの開く音がした。石塚准教授がゆっくり振り向く。俺もすぐに、入口付近に視線をやった。  すると、そこには水の滴る見知らぬ男が立っていた。その顔は青白く、あまり健康そうとは言えない。石塚准教授もすぐに声をかけないところをみると、間違いなく不審人物なのだが、あまりにも堂々と立っているので、警備室に連絡するということを躊躇させた。  その男は、呆気に取られている俺たちに向かって来るやいなや、第一声に言い放った。 「すみません!検死をお願いします。すぐそこで殺しです!殺された!」  石塚准教授は顔を歪ませて俺を見た。その顔には『面倒臭い』という意志がはっきりと読み取れた。この場合は面倒だとかいう問題ではない。  俺は少々パニック状態で、口を大きく開けたままムンクの叫びを表現していた。しかし、そこは年の功とでもいうべきか、石塚准教授は普段と変わりのない口調で答えた。 「あのね、まずは警察に連絡をして下さい。僕たち、依頼がないと検死はしません。それとも、警察の人ですか?」  的確な対応なのかどうかはわからないが、院生になってから初めて石塚准教授を尊敬した。こんな状態でも冷静さを失わないとは。  それでも男は怯まなかった。 「そんな悠長な事を言わないで下さいよ!ついさっき、そこで死亡したんですよ?」 「うん、わかったから。だったら、まず病院に連絡して下さい。もしかしたら、生きているかもしれないでしょう?緊急時の番号は知っているよね?常識だし。あ、献体を希望なら死亡証明書を取ってきてね。それから事務所に申し込んで下さい」  もしかしたら、石塚准教授は真剣に面倒臭がっているのかもしれない。俺はいつものように幻滅し始めた。普通、人が死んでいる、しかも殺されたと聞いたら慌てて現場へ駆けつけるだろう。全くこの人ときたら・・・。 と思いつつ、俺もあまり関わりたくなかった。  石塚准教授の言うように、人が倒れているのであればまず一一九番だ。それなのになぜ死亡と決めつけて、検死を熱望するのか。この男にはどこか異常が感じられる。  石塚准教授も異常を感じ取ったのか、数メートルの距離を取りながら男をジロジロと見ていた。 俺も一応真似をして観察してみる。滴り落ちる水・・・それと、血?男の足元に出来た水溜りは薄紅色をしている。真正面から見た限りでは外傷はない。服はたっぷりと水分を含んでいる。雨が降り出したのは、十時頃である。今まで傘もささずに外をウロウロしていたのだろうか? よく考えてみれば、こんな時間に大学に残っている人間は限られてくるし、ずぶ濡れの男が徘徊していれば怪しいのは明白だ。観察の結果、当大学の警備員の目は節穴だということが判明した。  わけがわからなかったが、他人に弱みを見せるのは癪だからと、俺は冷静を装った。 「・・・とにかく怪我をしているみたいだし、ホケカン(保健管理センター)に案内しましょうか?それから、詳しく事情を聞くということで・・・」  石塚准教授は頷いて、そうだねと静かに言った。そのやり取りを聞いていた男は、じれったそうに机を叩いて抗議した。 「怪我なんていいんですよ!検死、検死!」  検死を連呼する男の声が、静かな部屋の中で反響した。俺の腕には、鳥肌が立ち始めている。日本に体系的な監察医・警察医制度がないことに腹を立てているとしても、午前零時過ぎにシュプレヒコールをする馬鹿はいない。はっきりいって薄気味悪い。  石塚准教授をちらりと見ると、あからさまに目を逸らされた。俺はため息をついて、今日の運勢を呪った。他学部の酔っ払いが倒れているというのがオチだろうと思いつつ、もしもの可能性は捨て切れない。 「わかりましたよ!行きますよ!で、何処に死体が転がっているんですか?」  男は待っていましたと言わんばかりに、身を乗り出した。 「ここです!この僕ですよ!ほら、ここを殴られました!」  男はワンターンして、こちらに後頭部を向けた。髪に隠れて傷口こそ見えないが、そこからは鮮麗な赤い血が雨粒のようにポタリポタリと滴っていた。  話によると、男は文学部の学生で、午後九時頃に図書館を出た帰りに誰かに襲われたという。雨の冷たさに気づき起き上がると、どうも体が重い。頭からは出血しているから、怪我でそうなったのだろう。しかし、手を触ってみると異常に冷たい。さらに冗談混じりに脈を取ってみると、待てども待てども全然鼓動がなく、そこで初めて自分が死んだという事に気づいたそうだ。 突拍子もない話に、頭から血を滴らせる人間を前にして、俺も石塚准教授も治療という概念を完全に喪失していた。  男は感慨深げに言う。 「きっとまだ現世に未練があるんでしょうね。それか、犯人を捕まえなくてはという意識が強かったのかも。体は死んでいるのに、魂は離れない。僕、超常現象は信じないタイプだったんですけど。こういう事って、実際にあるんですね」  こういう事って、前例も聞いた事ないのだが。だいたい、脈を取り間違えるなんてことは素人によくあることだ。寒い中で寝ていれば、血管が収縮して脈も薄くなる。頭を殴られて混乱しているのだろう。なんだ、うっかりハチべエが乱入してきただけか。 俺の常識的推理を余所に、石塚准教授は男の手を取り、脈を確かめていた。しかし、すぐに手を引っ込めた。 「高見君、本当に脈がないよ!」  俺は内心馬鹿にしつつ、氷のように冷えた男の手を取り、脈を確かめた。 「あ・・・」  ない!本当にない!驚きのあまり、俺は慌てて男の目を覗き込んだ。 「い・・・」  瞳孔は開きっぱなしだ!角膜の溢血点、顔の鬱血と出血。頚部に締められた痕跡もないため、頚部圧迫による死亡ではないことだけは確認できた。角膜混濁が見られないから、男の言う通り死んだばかりなのだろう。俺は低く唸って素早く、冷たい手を離した。  ここにいるのは紛れもなく、本物の死体だ・・・。よく見ると、男の手は紫色に変色している。血液循環が止まったために、死斑が発現し始めたのだ。そのうちに硬直し、腐敗も―――。  と、恐れおののく俺を余所に、石塚准教授は平然と男と会話をしていた。これは世に言う恐怖体験なのだ。なぜそこまで無神経でいられるのか。こんな二人のそばにいる俺が居た堪れない。 「それで、殴った人間が誰なのかは判っているの?」 「たぶん同期の桜井です。女の事でちょっと、もめていましたから」 「でも、それだけじゃあ人殺しなんてしないよ」 「さあ?脅かすつもりで、間違って殺してしまったんじゃないでしょうか?」 「ドラマ的展開だね」 「僕もドラマみたいだって、驚いていますよ!まさか死んじゃうなんてね」  まさか死体が動いちゃうなんてね。俺も驚いていますよ。 「じゃあ、つねっても痛くないんだね」  そう言うと、石塚助教授はおもむろに手を伸ばし、男の頬を思いっきりつねった。得体の知れない物体を刺激しないで欲しいのだが。しかし、男の表情は変わらずにこやかだ。その笑いは顔が青白い分、不気味だ。 「あははは。痛くないっすね!」 「冷たい頬だね・・・死後三時間ぐらいかな?」  そういう問題じゃないだろう。今ここで問題にすべきなのは、『ゾンビが存在するか否か』だ。いや、違う。俺も少々混乱しているようだ。もとい。 「あの・・・それだけわかっていれば、俺たちより警察に通報したほうが・・・」  俺が恐る恐る質問すると、男はふいに深刻な顔つきになり、額を押さえた。先ほどまでの明るさも強がりだったか。やはり、自分が死んだという事実にショックを感じているらしい。 「それがですね・・・犯人の顔をはっきり見たわけじゃないし、証拠がない。だから、先生たちに僕が桜井に殺されたということを証明してもらおうと思って。そうすれば、僕も安心して成仏できる」  一応道理にかなっている。だが、俺たちは男の損傷過程や死因を教えることはできても、犯人や動機等々は説明できない。それは刑事の担当だ。正直にそう言うべきだろうか?しかし、無愛想に突き放して後で恨まれるのは嫌だ・・・。  俺が悶々と悩んでいるうちに、石塚准教授がはっきりと言ってしまった。良かった、これで恨まれるのはこの人だ。 「あのね、証拠を見つけるのは鑑識と刑事さんのほうが上手いから。やっぱり、先に警察に通報したほうがいいよ」  すると、男は残念そうにため息をついた。 「はあ・・・そうですか。ここに来ればどうにかなると思っていたのですが。そうですよね。ご迷惑おかけしました。それじゃあ、改めて警察に行って来ます」  案外、素直な死体だ。すんなり了承してくれた。 「うん、またね。検死の時に会いましょう」  それだけは嫌だ!俺は絶対に立ち会わないぞ。  男はロボットのようなぎこちなさで丁寧にお辞儀をすると、握手を求めているのか、強張った手を差し出してきた。死後硬直が始まったのか、辛そうに顔をしかめながら体を動かしている。果たして警察まで辿り着けるのだろうか?  石塚准教授は「まあ、頑張って下さい」と笑顔で握手に応じたが、俺は顔を引きつらせながらそれに応じた。男の手はやはり恐ろしく冷たい。  そんな俺の態度に男は哀しそうに微笑むと、もう一度お辞儀をして、非円滑的動きを見せながら部屋から出ていった。男が去った後には、やはり普段と変わらない薬臭さが漂っていた。  男が床に作った水溜りをモップで拭きながら、俺はまだ落ち着く事が出来なかった。黙っていると、頭が変になりそうだ。 「それにしても・・・あの男の検死を頼まれたら、本当に受けるんですか?言っときますけど、俺は遠慮しますからね」  俺が肩をすくめると、デスクに座っていた石塚准教授が、学会誌を読みながらつまらなそうに言った。 「うん?君、まだ騙されているの?彼は死んでなんかいないよ」 「え!?まさか!俺、脈も瞳孔もチェックしましたよ?」  それに、石塚准教授も脈がないと言ったじゃないか。あれはまさしく死体の為せる技だ。  一体、どうなっているんだ?  俺がまたまたムンクの叫びを表現すると、石塚准教授は学会誌を閉じてニヤリと笑った。 「それは先入観だよ。僕が『脈がない』って言ったものだから、ちゃんと確かめなかっただろう?今度からは頚動脈も確かめなさい。脈なんてね、二の腕をきつく縛ったり、脇の下にボールを挟んでしまうと、鈍くなるんだ。古い推理小説で、犯人が自分を死んだと見せかけるためのトリックだよ。彼、腕の血を止めたままずっと我慢していたんだね。その証拠に、彼の両手は紫色だっただろう?」 「そりゃ見ましたよ。あれ、死斑でしょう!?」 「死斑じゃないよ。死斑が出る頃には、肉を押すと戻りが悪くなるでしょうが。ちゃんと講義で教えたよね?脈を取った時、押してみたけど生体と変わりなかったよ。念の為に頬をつねってみたけど戻りは良かったし、僕の手には温かい息も感じられた。彼、つねった時も痛みを我慢していたんだ」 「しかし・・・そうだ!瞳孔は?俺、ちゃんと見ましたよ?散大していました!」 「うん、僕も見た。でも、眼科に行けば眼底検査用の薬があるしね。その薬を点眼すると、そのまま数時間瞳孔が開きっぱなしになっちゃうわけ。彼、眼科に行った帰りじゃないの?」 「・・・」  確かに、言われてみれば怪しいことばかり・・・って、最初っから考えれば死体が動くはずがない! 「だってさ、あの出血が一番おかしいよ。彼、九時頃に殺されたわけだろう?殴打されて出血したとしても、心停止しちゃえば血液循環は止まるから、それ以上の出血はあり得ない。雨が降り始めたのは十時、それで零時過ぎにここに来たわけだから、少なくともニ時間は雨に濡れていた事になる。その間に誰にも発見されないというのも変だし、服があれだけの水分を含んでいるならば、血が洗い流されていなきゃ変だよ。それなのに、頭からは血が滴り落ちていた」 「それじゃあ・・・あれは、濡れてから付けたものですか?」 「うん。たぶん、水に溶かした食紅に蜂蜜でも混ぜて粘り良くしたんじゃないのかな?水まで被ってさあ、寒かっただろうね。手も冷たかったし、顔まで青くしちゃって」 「しかし、どうしてまた・・・」 「眼科に行った帰りに友達に会って、そこで『まるで死んでいる奴みたいだ』という話になって、この悪戯を考えついたんだろうね。どうせやるのだったら、専門家を騙したいと思うのが人情でしょう?わりに徹底しているから、ミステリ好きの学生なんじゃないかな?僕としては、午前零時を過ぎてすぐに来たところに、大絶賛を贈りたいね」  なんて奴だ!俺はまんまと騙されたわけだ。あの男、怯える俺を見てほくそ笑んでいたのか!何だって、あんな趣味の悪い事をするんだよ! 「畜生!あの野郎!今度会ったら、望み通り切開してやるからな!」  俺は怒り心頭のあまり、モップを持ち上げて床に叩きつけた。部屋中に無頼漢な音が響く。 すると、石塚准教授は椅子から立ち上がり、壁に張ってあるカレンダーをおもむろにめくった。「言っておくけど、君。今日はもう三月じゃないよ。四月一日だからね?」  エイプリルフールに完敗!
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