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カザガザとした白いクロス。これだけが私の救いだ。この部屋にあるものの全てが規則正しい線を描き、面白味がまるでないのである。床に広がるタイルは正方形を連ねたもの、ドアは真っ白で上から下を触ってもなんの抵抗もない。便座の形は流線形を描くが、何度も見たことのある形である。だから、私の救いは壁にあるだ。
ここに来た時分には、確かに規則正しい線に魅力を感じた。だから、それらは、私が用を足すまでは、癒やしとも呼べるものであった。だが、今は憎しみさえも抱くほどに床、ドア、便器を軽蔑している。美しいものなどに興味はない。醜いものほど、私のこの苛立ちを抑えるものになるのだ。
私は憎きドアに体当たりをする。それは音を立てもせず、私を跳ね返すだけである。この行為は無駄だとわかっていても止めることはできない。おかげで、私の右肩付近は鈍痛に苛まれている。いや疼痛か。青あざ程度ならまだいい。しかし、服を剥いでみれば、きっと見えるはずだ。人間の皮の下の景色が。
時間。それはわからない。ただ、私の腹が空腹を感じる度に考えることになる。少なくとも週をまたぐ程度には時が進んでいるはずである。なぜなら、数日程度の空腹であれば、何度も経験したことがあるからだ。つまり、私はこの上なく飢えている。それを満たすものは、この白く染められた空間には存在しない。あるとすれば、蛇口から吹き出る水だけである。
声を上げた。返ってくるのはいつもの静寂。足音など聞こえてこようものなら、私の心に歓喜が訪れることになるだろう。そのような期待はまるで意味をなさない。車の音や、人々の話し声。雑草の葉が奏でる音でさえ、耳には届かないのである。
私は孤立した。世界から。
手でクロスを触る。ガザガザして気持ちがいい。その快感を得るため、手のひらはすりむけているが、それでも私は触る。満遍なく。心の向くままに。
感覚遮断という言葉がある。これは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚への刺激を極力抑えることを表した言葉である。その感覚遮断を行った環境では、人は幻覚を見ると言う。それは、私の現状と似たものがある。
見渡す限りの白。外からの情報が一つも入ってこない空間。そこに留まり続けているのだ。
私にはクロスがある。それに染み付いた血の色も。私には水がある。唯一の外から情報。空腹を満たすもの。
便座を覗くのは恐怖である。私は参っているからだ。そうだろう? そこにある水に私から生み出された糞尿があるのだ。それは醜く美しく、私の空腹を癒やすかもしれないのだ。
だが、それは間違いだ。そこにあるものを食べるということは、私の死期を早めることになるだけだ。しかし、私は糞を水に流すことができない。私から新たに生まれ出るものは、もう僅かであるからだ。
既に用なしとなった存在。それが、私の保存食。そのようなことが頭によぎるのだ。だがら、便座は覗けない。そこにあるものは、甘美な悪魔の囁きだから。
私にはクロスがある。何度も手で触る内に、この部屋は赤や黒に染められた。私はこれで正常でいられる。そう考えた。
しかし、待ち受けていたものはやはり白だった。クロスは剥がれるのである。それで露わになった壁はつるつるとした白だった。のり付けされているから、最初は抵抗があり、これでもいいかと思えた。だが、何度も触る内に滑らかになった。元がつるつるだからだ。
加えて、この憎き壁は私の痕跡を一つ残らず排除する。折角の赤は壁に付着せず、床へと流れてしまうのだ。これでは私が芸術を描くことは困難だ。己の心の決壊を留めるための芸術が。
紙を食べている。実に美味しい。これほどのものとは思わなかった。どんな高級料理よりも、紙は美味しい。憎き白ではあるが、食べてしまえば問題無い。私の色に染まるからだ。
壁、床、ドア、便座。全てに噛みついた。なめ回した。その度に水を飲む。私の生活は充実している。
歯は飴玉だ。舐めているといい味が出る。だが、それはもうなくなってしまった。
目玉。美味しい。最初からこうすれば暗闇と出会えた。
唾液。まだ出る。血。どれも美味しい。
私は美味しい。
「おい、ここだ早く来い。お前生きてるか。助けに来たぞ」
物言えぬ私に救いの声が聞こえる。男性だろうか? 女性だろうか? 耳が無いからわからない。目が無いから姿がわからず、筋肉が無いから手を動かすことができない。脳が無いからこの思考さえ、本当は存在しない。だが、骨はあるから、私はまだ生きて居る。この世界に存在している。そうだろう?
だから言わなくては。私は一人で寂しかったと。飢えてあらぬ行動に出てしまったと。だけど、糞は食べなかったと。
いや。そうじゃない。私が言うべきことは、それではない。感謝の言葉だ。
ありがとう。私を見付けてくれてありがとう。
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