影の襲来(一)

1/1
89人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ

影の襲来(一)

 風が障子紙を叩く音に、数馬は目を覚ました。辺りはまだ暗い。深夜だ。何か悪い夢を見ていたような気もするが、どんな夢を見ていたのかをはっきりと思い出すことはできない。  しかし、風が吹いているのは夢ではなかったようで、庭に面した障子が何故か開け放たれていた。部屋の中には月光の淡く白い光が差し込んでいる。 ――なぜ障子が開いているのだ。開けっ放しで寝た覚えはないはずなのに……。  数馬は半分寝ぼけた心持ちのまま起き上がり、障子を閉めようとした。  そこで数馬は不意に胸騒ぎに襲われた。隣に寝ている千鶴の方をはっと振り返る。  千鶴はいなかった。寝床は蛻の殻だ。  厠にでも行っているのか。だが、几帳面な千鶴のことだ。障子を開けっ放しにして部屋を出ていくなどということは考えられない。 ――もしや外に出て……?  嫌な予感がした。しかし、仮に千鶴が外に出たにしても戸口からではなく、部屋から直接庭先に降りて、しかもおそらく裸足のままで出掛けたということになる。そんなことがあり得るのだろうか。世の中には夢うつつのまま出歩いたりする病もあると言うが、千鶴にはそんな兆候はなかったはずだ。 「千鶴! 千鶴いるのか?」  数馬は庭へ向かって妻の名を呼んだが、ただ月明かりの下を風がひゅるひゅると吹き抜ける音がするばかりで千鶴の返事はなかった。  数馬は妻の寝床に手を当てる。夜具にはまだほんのりと温かさが残っていた。どこかへ出掛けたにしてもそう遠くには行ってはいまい。  数馬は羽織を引っかけ、刀を手に取ると戸口から表に飛び出した。 「千鶴! 千鶴! どこにいる!」  数馬は近所迷惑も顧みず、声の限り叫ぶ。 「ちづ……」  数馬はもう一度千鶴の名を呼ぼうとしたところ、あるものを目にして固まった。  海の方角から青白い靄のようなものが揺らめきながら煙のように立ち上っているのが見えたのである。靄は月の光の中でうっすらと輝き、まるで生き物のようにうねりながら蠢いていた。 ――何なんだ、あれは……。  数馬はしばし呆然と立ち尽くして、海から上空へとこんこんと湧き上ってく不可思議な靄を見つめた。見つめているうちに、ふと、千鶴はあの靄に連れ去られたのではないかという考えが数馬の胸の内に浮かぶ。それは直感のようなものだったが、数馬にとっては何故か限りなく確信に近いものでもあった。  数馬は走り出した。江戸川の支流である境川沿いの道を辿り、数馬は海に向かって力の限り駆けた。あの靄の下にはきっと千鶴がいる。助けなければ。  浜へ出る。青白い靄が充満していた。その靄の淡い光の中には思いの外たくさんの人がいた。三十人程の村人達が、皆して黙り込んだまま浜に立ち、こちらに背を向けて海の方を見ている。 「おい、皆! 何をしている!」  数馬は叫んだが、誰一人として振り返らず、身じろぎすらもせずにただ佇んでいた。 「おい……!」  数馬は近くにいた女の肩を掴んだ。女は緩慢な動作で振り返る。猫実村のおトキだった。靄のためか、おトキの顔は紙のように白く、病がちだった頃よりも余計にやつれて見えた。おトキは数馬の方を振り返ったものの、目の焦点はまるで合っておらず、血の通わない能面のように無表情だった。数馬はゾクリとした。  おトキの傍を離れてさらに周りを見渡す。さらに向こうにいるのは清吉じいさんだ。他にも、数馬がよく見知っている村人達が足に根が生えたように浜に並んでじっとしていた。  数馬は気が付く。この靄の中にいるのは、皆、一度死んで生き返った者達だ、と。  数馬は愕然として立ちすくんだ。その時、数馬の目の前をさらさらとした光の粒のようなものが風花のように舞った。光の粒は寄り集まる。何かが形作られる。それは人間の形だった。 「竹造……」  数馬は思わず声に出して呟いた。光の中に浮かび上がった男。海で溺れ死に、そして体を腐らせたまま生き返り、数馬が斬った、あの漁師の竹造だ。竹造の体は靄の中で生前の姿を取り戻していた。  生き返った者達が浜に集められている。では、千鶴は……。  数馬は佇む人々の間を縫って駆けた。千鶴を探す。この中にいるはずだ。なぜならば、千鶴は……。  ごう! と強い風が吹いた。青い靄が揺らぐ。数馬は思わず足を止め、目を細めた。  風に吹かれたなびく青い靄の中、大きな白い鳥が羽を広げていた。  数馬はよろめきながら歩み寄る。 「千鶴……」  鳥のように見えたのは千鶴だった。千鶴は海に向かい、両腕を広げて佇んでいた。夜着が風にはためいて、一瞬、鳥の翼のように見えたのだ。千鶴の膨らんだ腹も風を受けて、着物がぴったりと張り付いている。まるで人とは違う、別の動物のようだった。  数馬はそれ以上、千鶴に近寄るのをためらった。千鶴はすぐ近くにいる数馬に目を向けることもなく、無表情に、ただ真っ直ぐに海を見つめている。 ――千鶴……もしや、また行ってしまうのか、お前は……わしの元から去っていこうと言うのか……あの時のように……  数馬は思い出していた。ほんの一月前のことを。病を得た千鶴が死んでしまった日のことを。冷たくなった千鶴を目の前にした時の、身をちぎられるような悲しみのことを。 ――だが……  数馬は、悲しみの記憶を振り払うように自分に言い聞かせる。 ――千鶴は生き返った……そうだ、千鶴は戻ってきたんじゃないか。わしの元に。自分が死んだことすら忘れて、わしの傍で笑っていた。ついさっきまで笑っていたんだ……生きているのだ! 「千鶴……!」  数馬は叫んだ。逝かせはしない、もう二度と……その一心だった。  数馬の声に感応するように、千鶴の肩がびくりと震えた。ゆっくりと振り向き、数馬を見る。 「旦那……様……?」  虚ろだった千鶴の瞳に光が宿った。 「私……このような所に……なぜ?」  正気を取り戻したように戸惑いながら辺りを見回す千鶴に、数馬は安堵した。 「良かった、千鶴……」  さぁ、一緒に帰ろう。数馬が千鶴に向かって手を差しだし、そう言い掛けた時だった。  どおおぉぉぉん!  凄まじい地響きが起こった。それと同時に、海から水飛沫が上がるの見えた。冷たい飛沫が滝のように二人に降り注ぐ。靄の中に大きな黒い影が蠢いた。 「きゃああああああ!」  突如、千鶴が悲鳴を上げた。見ると、いつの間にか千鶴の体に真っ黒な影が大蛇のように絡みついていた。 「千鶴!」  数馬は刀を抜きはなった。影に斬りつける。しかし、影は意外に硬く、刃を跳ね返される。  そうしているうちにも影は幾重にも重なり、千鶴の体を呑み込んでいく。  影の間から、千鶴とは違う白い顔が覗いた。言いしれぬ禍々しさを感じさせる顔だった。白い顔は数馬を見て、嘲るようにニタニタと笑った。 「貴様……千鶴を離さぬか!」  数馬は再び、刀を振りかぶる。しかし、次の瞬間、殴りつけるような突風が数馬を襲った。 「うっ……!」  数馬は風に足を取られ、仰向けになって倒れ伏した。すぐに起き上がろうとする。しかし、何かにのしかかられているかのように体が重く、動くことができない。頭のすぐ上で、沢山の影があちらへこちらへと動き回っている、その気配だけが分かった。耳元では、ごおお……ごおおお……という嵐のような轟音、そしてその合間を縫って、微かに人の呻き声のようなものが聞こえてくる。  数馬は胸の奥を鷲掴みにされるような強い恐怖を感じた。一体、何が起こっているというのか。そして、自分と千鶴はどうなってしまうのか。  焦れば焦る程、体は硬直し、ますます動くことができなくなった。 ――誰か……御仏よ……助けてくれ!  藁にも縋る思いで仏に祈る。  しばらくすると、耳元で鳴り響いていた轟音が突如として消えた。体も嘘のように軽くなる。身を起こした。青い靄は嘘のようにかき消え、風は止んでいる。千鶴の姿も、浜に集まっていた人々の姿もない。ただ月明かりに照らされた浜の静寂の中に、数馬だけが一人、砂にまみれた姿で呆然と座り込んでいた。 「一体……どういう事だ……」  数馬はよろめきながら立ち上がった。狐にでも化かされて悪い夢を見ていたのではないかという気がする。しかし、耳には今も、千鶴の痛ましい悲鳴が生々しい程はっきりと残っていた。  数馬は沖に目を向けた。暗い海の中でちらり、と青いものが光る。  数馬は境川の岸に走り、係留してある小舟の一つに飛び乗った。誰の舟かは分からないが、今はそんな事に気を留めている場合ではない。  数馬は、青い光の見えた場所に向かって懸命に櫓を操った。舟の櫓を漕ぐのも子供の時以来である。なんとかコツを思い出してきたものの、逸る心に反してなかなか舟は進んでくれない。  それでも、舟は沖に向かって徐々に流れてゆき、ようやく大三角(おおさんかく)の近くまで辿り着く。大三角は江戸川河口に形作られた三角州である。辺りには一面のヨシが鬱蒼と生い茂っていた。  数馬は櫓を漕ぐ手を止めた。辺りには再び、先ほどの青い靄が漂い始めた。刀の柄に手を置き、息を潜める。千鶴を連れ去った影の化け物が近くにいるはずだ。音を立てぬよう用心しながら、唾をごくりと呑み込む。  その時、目の前の水面にゴポリ、と白い泡が立ち上った。ぬらりとした大きな黒い影の塊もその下に見える。 「出たか!」  数馬は刀を抜こうとした。しかし、その暇も無く、舟はガクンと大きく前後に揺らいだ。  ごぽっ、ごぼ、ごぽ……ごぽ……  不気味な音とともに、海面がうねり、ねじれ、渦を巻く。舟は渦に巻き込まれて、木の葉のようにぐるりぐるりと激しく回った。数馬は必死になって舟の縁にしがみつく。  ククククク……ハハハハハハ……  笑い声が響く。波飛沫とともに真っ黒な影が数馬に覆い被さる。影の中で、あの白い顔が目と口をいっぱいに開けて哄笑していた。  水柱が上がる。気がつくと数馬は水の上に叩きつけられるように放り出されていた。舟がついに横転したのだ。渦の中で数馬はもがいた。白い顔はますます数馬を馬鹿にしたように笑い続ける。  はははははは……はははははは……  頭の中に笑い声が木霊する。息が出来ない。沈んでいく。まるで体中が影に蝕まれたように、手足の感覚もいつの間にかなくなっていた。 ――千鶴……!  数馬は残された力を振り絞って叫んだ。しかし、声は出なかった。  意識が闇に覆われ、消えていく。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!