影の襲来(二)

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影の襲来(二)

「だからさ、お前はいつも心配しすぎだって言ってるんだよ」  吸い寄せられそうな闇を宿した暗い海の上、仄白い月光に照らされた小舟に揺られながら、左之吉は不服そうに文句を垂れた。舟には左之吉の他、誰も乗っていない。いつもいるはずの骸骨の船頭すらいなかった。しかし、左之吉は、構わずに虚空に向かって話し続ける。 「俺一人だって夕月は取り戻せるんだよ。わざわざお前に見張っててもらう必要もねぇ……もうちっと俺を信用しろよ」 [そういう事は、常日頃から信用できるような行いをしているやつが言う台詞だぜ]  いるはずのない英太郎の声が聞こえた。声は左之吉の頭の内側で響いているように感じる。妙な具合だ。  左之吉はふと思いついて、己の目玉を上下左右にぐるぐると動かしたり、やたらと首を振ったりしてみる。 [何をしている?]  再び、英太郎の声。 「いや……本当に見えてんのかと思ってな……お前に、俺の」 [ああ、俺にも見えている。お前の見ているものが]  左之吉は、うへぇっと心の中で呟いて、こっそり舌を出す。舌打ちのひとつもしてやりたかったが、そんな音が英太郎に聞かれたらまた喧嘩になりそうなので止めておく。  昨日、行徳沖の海で夕月が行方知れずになった。それだけではない。死神連中に聞いて回ったところ、左之吉の友人の作衛門も、いつか三途の川で別れたきり戻ってきていないということが分かった。作衛門も行徳沖に仕事に行くと言っていたはずだ。  行徳沖の海に出向いた死神が行方知れずになるという噂は本当だったのだ。  左之吉は、夕月と作衛門を探すために、他の死神達には内緒で再び行徳沖に行くことにした。特に、夕月はお辰から預かった娘だから、このまま見捨てるわけには行かない。いや、その事を抜きにしても、左之吉は夕月の事を内心かなり気に入っていた。助けてやらなければいけない、と純粋に思ってもいる。  そんな時に「俺とお前の目玉を取り替えよう」と言い出したのは英太郎だ。  左之吉ははじめ、英太郎の言うことの意味が分からなかったが、英太郎によると、片方の目玉を取り替えることで、離れていても互いに相手の視界を覗くことができるようになるのだという。 「万一のことがあった時、知恵は一人よりも二人の方が良いだろう」というのが、英太郎の言い分だった。  英太郎は、死神でも人間でもない存在だから、三途の川のほとりから離れることができない。夕月の身を案じながら、ただ店で一人待っているだけ、というのも耐え難いのだろう。左之吉なりに英太郎の気持ちを汲んで、英太郎の提案に了承し、右の目玉を交換した。つまり、今、左之吉の右の眼窩にはまっているのは英太郎の目玉なのである。  己の目を抜き取って、別の目玉をはめ直すのは妙な気分だった。不思議と痛みは生じなかったが、なんとなくソワソワする。そして、その違和感は時が経つにつれ大きくなり、左之吉は今になって、英太郎と右目を取り替えたことを激しく後悔していた。  要するに、自分のやる事なす事をいちいち英太郎に見張られていると思うとどうにも落ち着かないのだ。しかも、馬鹿がつく程に真面目で、頭の堅い英太郎が事あるごとに何かと口を出してくる。頭の中で英太郎の声が響いてくる度に、正直、煩わしくてイライラするのだった。 [おい、左之吉] 「……何だよ」  返事をするにも、自然、棘のある声色になってしまう。 [そろそろ何か感じるものは無いのか……夕月をさらっていったという影のあやかし……そいつがいるような気配は……] 「んな事言われても、昨日、来た時も何も感じなかったんだ、あやかしの気配も……あの影は、突然現れて何の気配も残さず去っていった……今更同じ場所に来たところで、そう簡単に気配なんかなぁ……」  左之吉は面倒くさそうにそう言い掛けたが、何気なく陸の方へ目をやり、そこで思わずぎょっとして固まった。 「何だありゃあ……」  浜の辺りから、薄青く光る靄のようなものが天空に向かってめらめらと立ち上っていた。 「あやかし……だけじゃねぇ……死人の魂の気配も……しかも、一人や二人じゃねぇな……何十人もまとまってやがる……どういうことだ?」  海を渡る強い風とともに、突如として押し寄せてきた怪しの気配。昨日来た時は、死んだ者の魂の気配さえ微塵も感じることができなかったはずなのに……。  思いも寄らぬ程の強い妖気に圧倒され、左之吉は体の内に震えが走るのを感じた。夕月がさらわれる時に夢の中に現れた不吉な黒い影の事を思い出す。あの影に感じた妖気も、こんな風に強く、禍々しく、澱んでいた……。  しかし、とにかく今はあの怪しげな靄の元に向かっていって、その正体を確かめたい。左之吉は咄嗟に舟の櫓に手をかける。 [おい、待て! 不用意に近づくな!]  英太郎が制止する声が頭に響く。 「何でだよ! あの靄みてぇなのは、あの影のあやかしが出しているに違ぇねぇだろ! 早く行かねぇと夕月を連れ戻すきっかけを見失うぞ!」  左之吉は怒鳴り返した。 [馬鹿! 夕月だけじゃなくて、作衛門や他の死神も何人もあの影にやられてるんだぞ! 二の舞になりたいのか?!] 「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」  左之吉は、苛ついたようにガン! と、櫓を足で思い切り蹴った。  足に痛みが走る。「う」と声を上げそうになったが、英太郎に聞かれると気まずいので何とか息を呑み込んで耐えた。  櫓にぶち当たってジンジンする爪先をさすりながら、痛みからか、興奮した心が少し落ち着いてくる。苛つきをなんとか抑えて、再び英太郎に声をかける。 「安心しろよ……別に丸腰で行こうってんじゃねぇんだ。俺にはこれがあるからな……この首刈り鎌が……」  左之吉はそう言って、腰の帯に挟んであったものを抜き取り、目の前にかざした。弧を描く鎌の刃が、月明かりの下でぎらりと冷たく輝く。  左之吉が、閻魔王庁の蔵の中から「無断で拝借」してきた首刈り鎌だ。獄卒が刑で使う大鎌よりもだいぶ小さく、草を刈る鎌と何も変わらない見かけだが、大鎌と同じようにあやかしや死神の魂を傷つけ、上手く行けば魂を消し砕くことさえ出来る。 [お前はまたそんなものを持ち出してるのか]  英太郎が呆れたような声を出す。 「借りただけだ。獄卒の刑具だか何だか知らないが、俺みてぇな下っ端でも持ち出せるようなところに置いておくのが悪いのさ」  左之吉は片手でくるりと鎌を回して見せた。  鎌の刃が回る向こうの景色は、闇。 「あ」  左之吉はふと浜のほうを見て、声を上げた。  さっきまで火の粉の舞うように煌めきながら立ち上っていた青い靄は、いつの間にか嘘のように消えていた。あれほど強く感じていたあやかしと死人達の気配もかき消えている。 「馬鹿っ、光が消えちまったじゃねぇか。お前が引き留めたせいだぞ」  左之吉は不満そうに唇を尖らせた。 [いや……光が消えたからと言って油断はできないぞ。あのあやかしは死神を狙ってるんだろ?] 「近くいるって言うのか? まさか……」  ひらり……視界の端に何かが翻る。左之吉は息をのんだ。 [舟の下だ!]  左之吉が振り向くよりも前に、頭の中いっぱいに英太郎の声が響いた。思わず弾かれるように身を低くし、舟の縁から海をのぞき込む。  確かに、いる。巨大な魚影。  いや、魚ではない。それが証拠に、舟の周りには、いつの間にやら陽炎のように揺らめく不気味な青い靄がひょうひょうと空を切るような音を立てて湧き上がり、渦巻き出している。  その靄の向こうに、蠢く黒い影。そして、漆黒の目を見開いて笑う、白い顔。  背筋に悪寒が這い上った。 「はは……そっちから来てくれたってワケか」  左之吉は笑い飛ばそうとしたが、声が上擦った。  首刈り鎌の柄を握り締める。認めたくはないが、手が震えていた。 [逃げられそうか?]  英太郎の声が言った。冷静な口調が気に障る。 「逃げるだって? どこへだ?」 [海の中だって、どこだって逃げれるんなら逃げろ。真っ向から向かっていっても勝ち目はなさそうだ] 「は……何言ってやがる。そこからじゃ何とでも言えるだろうがよ」  左之吉は首刈り鎌を体の前で構えなおした。 「逃げられるような場じゃねぇんだ。ちったぁ黙ってろよ!」  左之吉は叫び、己の震えを振り払うように鎌を力任せに振り下ろした。鎌の刃はあやかしの白い顔の眉間に真っ直ぐに突き刺さる。  ごぼり。  粘り着いた泥の奥で、何かが息を吐き出している……そう思わせる音。それは地獄の底から「夜」が忍び来る音にも似ていた。  銀色の刃を額に埋めたまま、白い顔は、耳元まで大きく裂けた口をニヤリと歪める。  ごぼり。再び、音がする。腐乱臭が鼻の奥に刺さる。 「くっ……」  左之吉は思わず、鎌をあやかしから抜き取り、後ずさった。  胸の奥が、早鐘のような動悸を響かせて暴れている。こいつはまずい。死神の勘が危険を告げている。やはり意地を張らずに英太郎の言う通りに逃げたほうが得策だったか。しかし、もう後には引けない。  ごぼ……ごぼり……  白い顔の額、ぱっくりと割れた傷口から、紅色の汁がどうっと噴き出す。しかし、血ではなかい。どろりとした粘液だ。強い腐乱臭の中に、花の香にも似た甘ったるい匂いが混じる。  その匂いを嗅いだ瞬間、左之吉は動けなくなった。手足に力が入らない。その場に崩れ落ちた。 [左之吉……!]  大丈夫だ。ちょっと匂いにやられただけだから。これくらいのこと……。  英太郎にそう答えようとした。しかし、ひゅうっと言う気の抜けた呼吸音が喉元で鳴ったきり、声にはならなかった。 「げほっ……げほ……」  舟底に倒れ伏し、身悶えながら、喉がつかえるような息苦しさに咳き込む。  息をしようとすればするほど、口から、鼻から、赤黒く、腐った「何か」がどろりと流れ込んでくるのを感じた。  英太郎が何か言っている。しかし、その言葉は意味を為さない音となって耳の奥で反響した。  真っ黒な影が、白い顔が、動けなくなった左之吉の上にゆっくりと覆い被さってくる。  屍肉の腐った匂い。甘い花の匂い。鉄錆びた血の匂い。遠くでさざ波のように聞こえてくる、沢山の人間達の呻き声。全てが渦を巻く。  やがて視界は深い闇に閉ざされ、左之吉は気を失った。
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