生き返り(二)

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生き返り(二)

「お帰りなさいまし」  数馬が屋敷に帰ると、戸を開く音を聞きつけたのか、妻の千鶴の声が出迎えた。奥の間からパタパタと足音がして千鶴が姿を現す。数馬の姿を見てにこにこと明るく屈託の無い笑顔を見せる千鶴はどこか子犬を思わせるようなところがある。 「わしが帰ってきたからと言って慌てて出迎えに来なくとも良い。急に立ち上がって転びでもしたら事じゃないか」  数馬は頬が緩むのを我慢してわざと厳しい口調で諫めるように妻に言う。 「ですが……」 「何度も申すが、江戸に居た頃の堅苦しいしきたりはここではもう不要だ。それよりも腹の子に障りがある方が大変だろう。今は肩の力を抜いて楽に過ごすと良い」 「はい……」  千鶴は頬を微かに染めて静かに微笑み、大きく膨らんだ己の腹をそっと撫でた。  千鶴は数馬よりも五歳年下の妻だ。祝言を挙げたのがもう十年前の事である。数馬が二十三で、千鶴が十八の時だった。  一年ちょっと前までは江戸深川に住んでいた。江戸近郊の漁村である行徳の下郷に移り住んだのは、なんと言ってもここが数馬の生まれ故郷だからだ。  数馬の生家・羽多川(うたがわ)家は下郷の網元で、名字帯刀を許されている程のいわゆる名家だった。数馬は少年の頃から江戸に憧れ、武士に憧れていた。  江戸川とその支流によって他地域から分断され、時に「陸の孤島」とも呼ばれることさえある行徳下郷に住む少年にとって、江戸という街は近くて遠い大都会であった。 「どうしても武士になりたい」と言って聞かない数馬の熱意に父が根負けして、知人の武家の養子にしてもらい、江戸に出たのが十三の年だ。羽多川家は長兄が継ぐことになっているので、数馬の我が儘も大目に見てもらえた形だった。  養子に入った松原家は代々幕府の勘定方でお役目を勤める旗本の家だった。松原家の年老いた義父母には子供はなく、数馬を実の息子のように可愛がってくれた。数馬は町道場で剣術を習い覚え、昌平坂学問所で学問を修めた。  二十二の年に松原家の父が死に、数馬が家督を継いだ。家督を継いだからには妻女も必要だろうと言うことで周りに薦められるままに妻を迎えた。  その当時の習いで、祝言の日まで顔も知らぬ花嫁であったが、数馬は妻となる娘を初めて見た時に胸の高鳴りを覚えた。決して美人とは言えないまでも、千鶴は暖かで優しげな空気を身にまとっていたのだ。  それ以来、長い間子宝には恵まれなかったものの夫婦の仲はおおむね睦まじく、穏やかで何不自由無い日々を送ってきた。  しかし、その数馬にとってたった一つ悩み事があった。義父から受け継いだ勘定方のお役目のことだった。一言で言えば勘定の仕事は数馬には合っていなかったようだ。五つ半(午前八時)に登城し、膨大な量の帳面とにらみ合い算盤を弾き、八つ(午後二時)には帰る。地味な仕事だった。せっかく懸命に習い覚えた剣術も学問も何の役にも立たない。あんなに憧れていた武士とはこんなにもつまらないものだったのかと内心辟易しながら、しかし現実など所詮このようなものなのだと自分に言い聞かせては日々を送っていた。  毎日の暮らしに倦んだ時に数馬が思い出すのはいつも故郷の事だった。  貝漁の舟が所狭しと浮かび、荒々しい漁師達のかけ声も賑やかな境川。空の色を映してゆったりと流れ、水鳥達の戯れる江戸川の長閑な風景。そして、三浦岬や富士の山、上総の山々までも見通せ、白い波が寄せ返す三番瀬の浜……。全てが懐かしく、愛おしいとさえ感じる。  昔は村を出て江戸へ行きたいとあれだけ望んでいたのに現金なものだと自分でも思う。しかし、年を経るにつれ望郷の念を抑え難く、思い悩んだ末、勘定のお役目を辞して故郷の行徳下郷に住まいを移したいと千鶴に告げたのはちょうど二年前のことだ。 「旦那様が育った生まれ故郷、私も見てみとうございます」  千鶴はそう言って屈託無く笑った。  居を移すことが決まれば、後の事の進みは早かった。思いとどまるよう助言をする者も少なくなかったが、数馬は頑として聞く耳を持たなかった。  そして、いざ故郷に帰ってみれば、実家の当主になった兄も、年老いた両親も、数馬達夫妻を思いの外暖かく迎え入れてくれた。  数馬達は羽多川家の持ち家であった堀江村の小さな屋敷に移り住んだ。暮らしの糧を得るため数馬は寺子屋を開き、近隣の子供達に読み書き算盤を教えることにした。屋敷の庭には小さな畑を作り、四苦八苦しながらもなんとか自ら耕して野菜を作るようにもなった。  一方で、江戸の武家育ちで箱入り娘だった千鶴を田舎暮らしさせるのは初めはいささか不安もあった。しかし、実家の兄が気を利かせて手伝いの老女を寄越してくれたおかげで、千鶴も手助けを受けながら新しい家の家事や雑事を自らこなせるようになっていった。  つつましやかな生活だが江戸に居た時よりも気が楽で伸び伸びとできた。それに加えて、今まで諦めていた子宝が千鶴の腹に宿るという吉事にも恵まれたのだ。  この村に戻ってきて良かったと数馬は己の幸せを今、しみじみと噛みしめている。 「おサクさんに聞いたのですけど、境川の向こうの……猫実村のおトキさん、昨日生き返ったそうですね」  奥の座敷で数馬がくつろいでいると、隣に座った千鶴が何気ない口調で言った。しゃべりながらも千鶴の視線は手に持った端切れに注がれている。生まれてくる赤子のために襁褓を縫っているのだ。  おサクというのは、この屋敷に通いで手伝いに来てくれる老女のことだった。噂好きでおしゃべりな婆さんで、おかげで千鶴は家に居ながらも村の誰それがどうしただのどこに行っただのという事を自然によく耳に入れていた。 「なんでもお葬式を挙げて死体を棺桶に入れて、さぁ埋めようという時に棺桶の中からドンドンと叩くような音が聞こえたのですって。開けてみたら、病で死んだはずのおトキさんがひょいっと立ち上がって……それで皆、腰を抜かしたそうですよ」 「また生き返りか……近頃やけに多いみたいだな」 「本当に……。江戸に居た頃は、死んだ人が生き返るなんて話は全然聞かなかったのですけど、こちらに来て驚きました。この辺りでは、生き返りって昔から多いんでしょうか?」  真面目な顔で尋ねる千鶴に、数馬は「まさか」と言って笑った。 「わしが子供の頃にもそんな話は聞かなかったよ。村の者に聞いてみたらどうもここ二、三年の出来事らしい。不思議なこともあるものだよ」  千鶴も言うように、数馬が故郷に帰ってきてまず驚いたことの一つにこの「生き返り」があった。一度死んだはずの者がしばらく経ってから息を吹き返すのである。しかも、生き返りは決して稀な出来事ではなく、近年、この行徳下郷を中心としてかなり頻繁に起こっているらしかった。  数馬は千鶴の話を聞きながら、先ほど渡し舟で清吉じいさんから聞いたことを思い出していた。
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