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彼が懺悔室を出た後、私もすぐさま懺悔室から飛び出した。慌てて飛び出した。しかし、そこには誰もおらず、いつも通りの静かな教会である。私は一応懺悔室のなかも隅々まで調べてみたが、そこには人がいた気配すらなく、椅子は冷え切っていた。
私は教会の外も調べに行こうとドアノブに手をかける。私はその時になってようやく思い出した。私は一人で懺悔室にこもるにあたって教会の扉や窓には鍵をかけていたのだ。しっかりと鍵をかけていた。つまり、私の許可なくこの教会に入ってくることは不可能なのだ。例えば幽霊でもない限り。あの少年はいったい何だったのだろうか。まさか本当に幽霊だとでもいうのだろうか。いやいや、そのようなことあるわけがない。人は死後、神のもとに帰るのだから。幽霊などいるはずがないのだ。私は長めの幻聴を聞いたのだろうという少し無理のある言い訳で自らを納得させ、その日は眠りについた。
次の日も、私は昨夜の少年の話を忘れることはできずにいたが、それでもあまり気にしないようにしようと考え、毎朝ポストに投函される新聞を読んで、気を紛らわせようとした。すると、新聞の隅にひっそりと書かれたある事件の記事が不思議と目についた。記事の内容はこうだ。
「先日、胸に文房具を刺され死亡したとみられる男子高校生の遺体が発見された事件だが、当初、事件は殺人の線が濃厚とされていたが、今朝、自殺と断定され、容疑者とされていた少年の捜索も打ち切りとされた。」
文房具、胸を刺され、自殺、その全ての状況が昨夜の少年が語った内容と一致している。寸分たがわず、一切の矛盾なく。こうなってしまえば私は認めるしかないのだろう。昨夜、私が聞いた声は幻聴などではなく、少年が実際に私のもとを訪れ、話した懺悔であることを、友人の記憶に残るためだけに自らの命を絶った少年がいたことを、認めるほかないだろう。
しかし、それはそれでよかったと言えるのかもしれない。確かに人の死とはいつの世も痛ましいものではあるが、どのような形であれ、私が昨日神に祈った通りに、少年の死は安らかなものであったのだから。彼は安心してこの世を去っていったのだ。
私は少年の最後の願いを叶えてやろうと考えた。もし、Aと呼ばれる少年がこの教会の門扉をたたき、自らが自殺に追いやった過去の友人の話を私に懺悔するようなことがあれば、忘れることなくかの少年の墓に参り、教えてやろうと考えた。私はずっと、ずっと待っていた。しかし、Aがこの教会に来ることはなかった。十年待とうと、二十年待とうと、何十年待とうともAが訪れることはなかった。
Aは懺悔になど来なかった。
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