懺悔

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懺悔

 日本にも教会というものは決して多くはないが存在する。そして、教会には一応懺悔室というものが設置されるのが通常である。人は生きていれば罪を犯すものであり、その罪を心のうちだけにため込んでいられるほどに強い存在ではない。しかし、その罪が友人や家族に打ち明けられるものではない場合も多々ある。だからこそ教会は懺悔室という場を設けて匿名で罪を告白し、迷える子羊の心をいやそうとするのである。  まあ、しかし、日本は宗教心が薄い国であり、それに仏教徒に比べればキリスト教徒はそこまで多くはない。さらに教会に通うほどの敬虔なクリスチャンに絞ればさらに少なくなり、その中でも懺悔室を利用する人間ともなれば雀の涙ほどもいないのだ。そして、この教会は街外れに位置しているということも相まって、日曜日のミサでもなければ来訪者はほぼ皆無といってよい。  よって、牧師である私は誰も来ないこの教会の懺悔室で、コーヒーを飲みながら新聞を読んで時間をつぶしているというわけである。新聞を読むのになぜ懺悔室に入る必要があるのかと問われれば、それは私が狭いところのほうが落ち着くからというだけの理由だ。それ以外の理由は特にない。  新聞の一面には男子高校生刺殺事件の容疑者として、その同級生が挙げられ、現在捜索中というショッキングなニュースが、現代の若者の心の闇とともに記されている。子供が子供を殺すとは物騒な世の中になったものだ。「なったものだ」なんて昔は物騒ではなかったような言い方をしたけれど、よくよく考えてみれば昔も昔でたいがい平穏ではなかったようにも思う。なにぶん昔のことなのであまり覚えていない。  まあ、それでもいつの世も人の命がなくなるというのは快い事柄ではないのは確かだろう。痛ましい事件である。亡くなった少年が信じるものが神か仏か、はたまたそれ以外の何かはわからないがキリスト教に属する私としては神に祈るしかないだろう。かの少年の死がどうか安らかなものでありますように、アーメン。  しかし、情報メディアの普及によって、毎日のように事件や事故がニュースとしてテレビや新聞、またはそれ以外の情報ツールから発信されるようになると、社会には不幸ばかりが満ちていると勘違いしてしまうのも仕方のないことかもしれない。そういう視点から鑑みれば他人の不幸を知らずにいられた  「昔」は幸せだったと言えるのかもしれない。「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、私からしてみれば他人の不幸話など聞かされても気が滅入ってしまうだけだ。  私が新聞の文字を目で追いつつ、コーヒーカップに口を着けようとしたその瞬間、懺悔室の扉がとんとんと控えめにノックされた。こんな時間に教会に、さらには懺悔室に来客とは珍しい。しかし、教会はいつどんな時であろうとも信徒を拒むことはない。私は新聞を畳み、どうぞと声をかける。どんな人間が入ってきたかはわからない。先ほども言ったように懺悔室とは匿名性が重要なのだ。しかし、そうはいっても声の感じからして中高生くらいの男の子だろうというのが分かってしまう。まあ、このくらいは仕方がないこととして流すべきだろう。  私は彼が椅子に座るのを待ってからいつものセリフを読む。 「では、迷える子羊よ。汝の罪を聞きましょう。」  私がそういうと男の子はたどたどしく話し始める。これは一人の少年の懺悔の物語だ。
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