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走る走る。
砂埃を蹴散らすようにして、こんもりとした森へのあぜ道を駆けた。
すこし遅くなっちゃったかも。
あの二つの月をみてから家に駆け戻り、「いつもの」を作って、みんなが寝静まってからこっそり出てくる。
鬱蒼と頭上に覆いかぶさる葉の隙間からかすかに差し込む月明かりを頼りに、湿った土を踏みぬきながらずんずん奥へ。
唐突にばらりと緑が途切れ、黒い湖面が現れた。
太陽のもとでは、青く透明な湖底が覗けるほどの美しい湖も、今は墨壺のような湖面にまるい橙だけをゆらゆら乗せている。隣に映るはずのぼんやりとした金の月はなぜか、黒い水の上にはみあたらない。見上げれば確かに煌々と照る橙のとなりで寄り添うようにまるく浮かんでいるというのに。
月光がぬらりと照らす水際で、白茶けた倒木に腰掛ける所在無げな黒い影。はぁはぁと息を切らして、そばへと駆け寄った。
ー遅えよ
待ちかまえていたように、すっとこちらに向けられる目線。肩のあたりでさらりと揺れる、しろがね色の髪。端正な横顔はこれまでと同じように、今夜も美しかった。
乱暴な言葉とは裏腹に、口の端をあげて目を細め、鬼は嬉しそうに、待ってた、と笑った。
「ご、ごめんなさい、遅くなっ…て」
ぜえぜえと肩で息を切らす私に、走りすぎだろお前、と少し呆れたように言いながら、横倒しになった木からひょい、と飛び降りる。身につけている白い布地がふわ、と揺れた。
「だ…って」
だって月がいつ消えてしまうかわからないんだもの。
貴方がいつ消えちゃうかわからないから、必死で走るんだよ。
荒い息とともに言葉を飲み込んで、彼に「いつもの」握り飯の包みを渡す。
さんきゅ、と片手で受け取り、これこれ!と目を細める。ほら、あっちで食おーぜ、と水辺に横たわっている一際大きな倒木を指差した。
さんきゅというのが、ありがとうの意味なのも、やべえ、というのは、なんとなくすごい、とか、ものすごくよかったり悪かったりとかいう時の言葉だ、というのもこの鬼に教わった。結局いいのか悪いのかわからないその表現に、鬼の世界は言葉も衣服も似ているようで、やっぱり違うのだと妙に納得する。
オニじゃねえし。何度言ってもわからねーやつだな、とため息をつく彼は、名を浅緋(あさひ)といった。
ーん、美味い。やっぱサイコーだわ。お前のおにぎり。塩加減がサイコーにオレ好み。
「さいこー? 」
ーそ、めちゃくちゃウマいってこと。オレが食べたなかで一番。
にかっと笑うと八重歯がのぞいて急に幼くみえるから不思議だ。
ーこれは牙じゃねぇーよ八重歯なの!
またひとつ、彼の世界の言葉を知って自然と緩む頬を俯いて隠す。今私はきっと、さいこーに、嬉しい。
「お茶、飲む?」
ーああ。
こんな風に夜のひとときを一緒に過ごすようになって、もうすぐ季節がひと巡りする。
初めて彼を見つけたときにはただただ恐ろしくて、息を潜めて茂みの隙間から覗くだけだった。やがて、現れる度にいつまでも呆然とあたりを見回し佇むだけの後ろ姿に、恐怖よりも好奇心を覚え始める。
項垂れる背中に声をかけたのは私の方だった。
ひと月に二度ほど、ふたつめの月が見えるときにだけ現れる浅緋に、持っていた握り飯を渡してからずっと、こうやって一緒に過ごしている。
さらさらと夜風に揺れる銀髪、形の良い眉に少しつり目気味の眼。元々男のほとんどいない土地のせいもあり、小さい頃聞かされていた恐ろしい鬼の姿とは似ても似つかないその美しく凛々しい容姿と、彼が披露する珍しい話は私を惹きつけ、彼に会うのが生きる目的にすらなっていた。
鬼じゃねえよ。人間だって。ツノなんかねえじゃん。
ほら、頭を振って私に突きつけてくる浅緋はなるほど人間にしか見えない。それでも、
「ニンゲンが、こんな風に現れたり消えたりするはずないよ」
ーまぁ、そうだけどよ、オレにもぜんぜんわかんねえ。時代も違うみたいだしな。たぶん俺、毎回タイムスリップみたいなんしてんじゃねーかな。
浅緋は綺麗な顔に似合わない乱暴な言葉をよく使う。
ジダイとか、ケンガイとか、よくわからない言い回しを呟いて、途方にくれたように空を眺める。
同じように空を見上げても、彼の居場所は見つからないし、見つからなくていい、と思ってしまう自分が嫌で唇を噛みしめる。
ーあ、そうだ。手、だせよ。
美味かったと満足げにため息をついた彼は、思い出したように履き物の腰に手をやる。でにむというらしい。
彼が手のひらにのせていたのは、三つの小さな透明の包みだった。
「なに?これ」
ー飴玉。お前んとこにもあるだろ?これは俺んトコのヤツ。こっちに飛ばされんのいっつも突然だからさ、慌てて目の前のヤツ必死に掴んでやった。今回なんかバイト中だったんだぜ?
大真面目な顔でそんなことを言う。ばいと。また教えてもらわないと。
それに、飴玉は知っているけど、こんなぺらぺらとした包み紙は見たことがなかった。赤や青にきらきらとまるく輝いて、本当にきれい。
街に行けばあるのかもしれないが、あいにく私はこの土地から出たことがない。
飴玉など、たまに誰かのおみやげで見るだけだ。
ーほら、手。
浅緋は不思議そうに見ているだけの私の手をとり、掌の上にのせてくれる。端正な顔に似合わない大きくて、ごつごつした指の感触に、いつも戸惑ってしまう。
ー食べてみろって。
「うん」
返事をしたものの、
「どうやって、あけるの?」
ふ、と笑って、こうだよ。
ぴりぴりと包みのふちを破った。橙色の玉がぽろりと出てくる。人差し指と親指でつまみ、わたしの唇の前にさしだす。
「え、と」
ーくち、あけろって
わけがわからず動悸だけが激しくなる。
ほら、こうやって。形のいい唇が半開きになる。その妖艶さに軽い目眩さえしてきた。
浅緋の真似をしてぎこちなく唇をひらくと、ぎゅ、と飴玉が押し込まれる。
甘く、なんとなく蜜柑のような香りが口の中に広がって思わず彼の目を見た。
「うわぁ、なんだか、匂いがするね。甘くて、おいしい!」
口の中でころころと転がす。
ーん、美味いか?
うんうんと首を立てにふる。
そっか、嬉しそうに彼も頬を綻ばせた。
そして、ちらりと東の空をみて、私の指に自分の指を絡ませ、立ち上がる。
私も彼の隣で立ち上がった。いつものように水辺を二人でゆっくりと歩く。不思議と彼が現れる時は雲がほとんどない。月の光は小さな湖とその周りを、私たちを、ふんわりと包む。
次はいつ会えるかわからない。
これが最後かも、といつも恐怖におののく。けれどもそんなことより、今隣にいる浅緋を目に焼き付けることの方が大事に思えた。
ーオレ、自分とこではヤバイことばっかりしてんだ。
珍しく彼が自分のことを話す。
ーこんな風に笑ったり、あんましてるヒマねーし。
毎日ぎすぎす人のこと傷つけてっから、ココに飛ばされたのはバチが当たったのかもなって思ってた。弱え人間いたぶった時ばっかりここに来るしな。オレが鬼ってのもあながち間違いじゃねえかも。
浅緋は少しずつ、溢れるように話す。瞳は遠く遠く、どこを見ているのだろう。しくしくとした痛みが彼の指から私の指へと伝わる。ぎゅ、と握り返した。
ーでも、お前に会えてよかったよ。
これから、いつ会えなくなるかもわかんねーから、今言っとく。
浅緋はおよそ鬼には似合わない、柔らかな瞳を揺らして私を見下ろす。
「ありがとな」
ーお前に会ったあとは、いつも心がちょっとだけ、綺麗になるんだ。ま、俺バカだし、またすぐ同じこと繰り返すんだけど。
彼はくすりと苦笑いして肩をすくめた。
ふわりと、抱きしめられる。浅緋の胸からは、私と同じようにどくんどくんと、心臓の音が聞こえた。
ーいつか、お前ともっとゆっくり、過ごしてーな。
背に手を回し、今は確かな温もりを私も抱きしめる。
「うん」
東の空が紫から淡い桃色へと滲んでゆく。
柔らかなその光が湖に届いたとたん、抱きしめていた彼の感触は消えていた。
空を仰げば、橙の月は薄い白の円になっている。となりの朧げなふたつめの月は、夜明けと同時に消えていた。
淡い光を反射して金と黒に揺れる湖面を見つめ、私はため息をついてしばらくそこから動けない。
手のなかには、飴玉がふたつ。寄り添うようにならんでいた。
fin
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