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転機
雑踏の中を俯きながらひたすら進む。
猿のように大声ではしゃぐ女、ガハハと下品に笑う男、教師たちによる朝の挨拶の合唱。どれもが鬱陶しくて仕方がない。眉をしかめながらも二階まで階段を上がる。すると直ぐに二年二組の教室に到着する。
いつものように固く閉められた教室の扉。その取っ手に右手を掛ける。
━━━━今日こそはイジメが終わっていますように。
そう願い始めてからもうじき二年。無駄な祈りはとっくに捨てた。今日は何が飛んで来るのだろうか。上履きかもしれない。はたまた、バケツで頭から水を掛けられるのかもしれない。
そんな想像を一通り終えると、はーっと深く息を吐く。そろそろ扉を開けなければ。
僕はギュッと目を瞑ると、恐る恐る扉を開けた。
「え……?」
そこに広がっていた光景に、僕は唖然とした。
僕へのイジメが始まったのは、中学に入って直ぐの事だった。
暗いだの声が小さいだの、そんなどうでもいい事を理由に僕はクラスの所謂”ケンリョクシャ”に目を付けられてしまったのだ。始めはクラス総員での無視からだった。勿論、そのケンリョクシャ軍団の指示である。
しかし、元々友達と群れたりするのが苦手だった僕にはあまり効果がなかったのだ。実際、そんなに傷つかなかったし、寧ろ一人で落ち着ける時間が増えて丁度いいと思っていたくらいだった。
そんな僕の反応が奴らは気に食わなかったらしい。次に始まったのが暴力だ。休憩時間になると教室の扉を閉め切り、僕に執拗に暴力を振るったのだ。三、四人で囲んで、殴る蹴るの繰り返し。リンチそのものだった。どこへ逃げても追いかけて来て、人目につかないところへ連れて行かれる。そして暴力、暴力、暴力。
それだけじゃない。奴らは僕の顔に雑巾を押し付けたり、虫の死骸を口に入れるなどの不衛生な行為まで働いた。時には服を脱がされて恥晒しにされる事もあれば、ドラマか映画の真似で葬式ごっこなるものまでされた。
勿論、逃げられるものなら逃げたかった。学校なんて行きたくなかった。だが、両親の事を思うとそんな事、出来る筈がなかった。
僕の父さんは医者、母さんは看護士。二人とも他人より頭が良い。その為か、勉強には殊更厳しかった。将来の為だからと小学校低学年の頃から僕を進学塾へと通わせ、その上、仕事の合間を縫って家でも勉強を教えてくれた。そのおかげで僕は常にトップクラスの成績を維持出来た。
そんな二人に学校に行きたくないなんて言ったらどうなるだろうか。そりゃ、勉強なら家でも出来る。だが、内申点がうんと下がってしまう。そうなれば、いくら勉強を頑張ったってあの二人が望むような学校には入れない。
だから、反対されるに決まっているのだ。
結局、僕はこんな毎日から逃げ出す事も、抗う事も出来なかった。
何一つ状況は変わらないまま、一年が過ぎ、そして二年が過ぎ去っていく。
━━━━そう思っていた。
「良かったな」
呆然と佇む僕の耳に、声変わり真っ只中と言わんばかりの掠れた中低音が滑り込んだ。
「……え?」
「ほら、分からねぇか?」
声の主はクラスメイトだった。毎日会っているので顔は分かるが、どうも名前が出て来ない。
「ターゲットが変わったんだよ」
僕の様子なんか気にも留めず、彼はペラペラと喋り出した。
「アイツらサッカー部だろ?詳しくは知らないけど、冬休みの間に何かあったらしい。仲間割れってヤツだな」
そう。教室で行われていたのはイジメだった。だがターゲットは僕じゃない。
蹲り、激しい暴力に耐えていたのはかつて僕を虐めていたグループのリーダー、森園大地だった。
「今まで散々好き放題やってきたツケが遂に回ってきたんだろうな~」
ペラペラ喋り続ける彼の左隣で、僕はポカンと口を開けていた。
「どうだ?嬉しくないのか?」
その言葉に、僕はゆっくりと彼の方を向く。
「自分を虐めていた奴が同じ目に合ってるんだぞ?こんな面白い事ないんじゃないか?」
━━━━嬉しい?面白い?
僕は心の中で、彼の言葉を繰り返した。
が、何度唱えてもその答えは分からない。ターゲットが僕じゃなくなった事も、いじめっこが僕と同じ目に合っている事も、まだ何一つ実感が湧かないのだ。現実の出来事に脳の理解が追い付いていない、とでも言うべきか。
あんなにイジメがなくなる事を祈っていたのに。あんなに森園大地を恨んでいたのに。
「……うん、うれしい」
だが、僕の口は勝手にそう動いていた。
それが本心なのか、それとも相手の望む回答だったからなのかも分からないままに。
「やめろ、やめろよお前ら、なぁ……っ」
目の前では、壮絶な暴力が繰り返されている。全て僕の受けたものと同じだ。
“ザマーミロ”なんて感情はやっぱり湧かなかった。ただ漠然と「あぁ、痛いだろうなぁ。怖いだろうなぁ」なんて思いながら、地べたに転がって悶絶する憎い男を眺めていた。
するとその時、ふいにその鋭い目が僕の姿を捉えた。
「お、まえ……」
途端に、奴の目付きはかつてのものへと変貌する。弱者を見下し、嘲笑し、そして相手の心を殺す。あの暗い底無し沼のような暗い目が、僕を捉える。
「ヒ……ッ!」
僕は思わず、情けない声を上げてしまった。それと同時にクラスの皆が一斉にこちらへと目を向ける。
皆の冷ややかな視線が身体中に刺さる。
あぁ痛い、痛い、痛い……
「おい、こっちに集中しろよ」
その瞬間、奴は乱暴に前髪を捕まれ、無理やり引っ張り上げられた。
「いつまで勘違いしてんの?お前はもうこっち側の人間じゃねーだろ」
そうかと思えば、息つく間もなく頬をぶん殴られ、そのまま奴の体は床に叩きつけられた。それでも奴は何か言おうとしていたのだが、何も言わせまいとするかのようにドカドカと何発も蹴りを入れられる。
それを僕は端から見ている。ただ何もせず、大衆と一緒になってボーッと見ている。
その事に気付いた時、やっと実感出来たのだ。
もう僕はそっち側の人間じゃないんだと。
これまでは酷い暴力、突き刺さる周囲の視線。同調圧力に支配されるしかなかった。
だが、どうだろう。その暴力も視線も、まるで僕からスライドするかのように、あの男へと移り変わった。
今、僕は支配する側にいるのだ。
「あ……」
また蹴られた。その様子に僕は初めて”嬉しい”と感じた。
社会には必ず序列が存在する。
それに沿うように、学校にも序列がある。巷ではスクールカーストだなんて随分お洒落な名前で呼ばれているが。どんな学校でも、そこに入れば誰もが否応なくそのカーストに飲み込まれ、勝手にランク付けされる。そこから上がろうともがくか、その位置で大人しく過ごすかは個人の自由だ。
森園大地は、このクラスの権力者だった。
奴に逆らう人間なんて一人もいなかった。生徒は勿論、先生さえも奴の支配下だった。
そんな男に目をつけられた僕は、世界一の不幸者と言えるだろう。接点なんて何一つないのに、奴はある日突然クラスから僕を排除したのだ。そのせいで僕は二年もいじめに耐えなくてはならなくなった。森園の権力は、それほど莫大なものだった。
奴の取り巻きは同じサッカー部の三人。エースの武川、その相棒の河室、そしてパシリの横田。運悪く、全員僕と二年連続で同じクラスだ。
サッカー部は、うちの学校でも特に厳しいと評判の部だ。そのため、進学や就職などに有利だと聞いた事がある。森園はそんな厳しい場所に身を置いている。が、まともに部に顔を出した事はないらしい。そんな中途半端な奴がどうして未だサッカー部に居続けられたのか。そして、何故それ程の権力者だった森園が一転、イジメのターゲットとなったのか。部外者の僕には知る由もない。いや、知りたくもない。
もう僕はアイツらと関係ない。その事実さえあれば十分だ。
そう、十分だった。
新学期が始まってから早一週間。僕を取り巻く環境はあの日から何ら変わりはしなかった。
「ほら来いよ森園~」
「さっさと立てよコラ」 森園大地は相変わらず苛められ続けている。奴も元々は虐める側の人間だ。何かしら反撃に出るだろうと思っていたのだが、案外大人しくしているらしい。
今日も今日とて、武川、河室、横田の三人に首根っこを捕まれて教室から連れ出された。どうせこの後、トイレか何かで暴力を振るわれるのだろう。想像するに値しない。
この一週間、ずっと奴らの暴力を間近で見てきた。毎日毎日、まるで見せしめのようにクラスメイトの前でひたすら行われる暴力に次ぐ暴力。周囲は哀れみの目で見てはいるものの、被害者がいじめの主犯だったからか、然程同情されていないように思える。
━━━━あの中心に、僕はいたんだ。今考えると、ゾッとして全身に寒気が走る。
しかし、恐ろしい事だ。三学期初日のあの日以来、僕は奴らの暴力行為から目が離せない。それどころか、日々の楽しみになっているのだ。
だって考えてもみて欲しい。僕を散々足蹴にした野蛮人が、飼い犬に手を噛まれているのだ。こんなに面白い事はないじゃないか。奴が苦痛に顔を歪める度に、痛みに悲鳴をあげる度に、僕の心は高笑いをあげる。それを隠すのに必死なくらいだ。
僕は歪んでいるのかもしれない。でも、そうさせたのは他でもないアイツだ。
全て自業自得だ。ざまあみろ。
その日の放課後。いじめのない穏やかな一日を過ごした僕は当番だった教室の掃除を終え、溜まっていたゴミを捨てに行った。風船のように大きく膨れ上がった黒いゴミ袋をゴミ捨て場に無造作に投げ捨て、さっさと帰ろうと踵を返した。
その時、聞こえてしまったのだ。
「やめ、やめろ、う……やめろよ……!」
か細く、微かな声。だが、この声は間違いなく森園大地のものだ。
ゴミ捨て場は校舎の裏だ。高いブロック塀に囲まれた我が校では、中からも外からも人目につかない場所。人を苛めるにはには絶好のポイントだ。
僕はゴクリと息を呑んだ。胸が高鳴り、自然と頬が緩む。
見てやりたくなったのだ。本来なら誰にも見つからない場所で、恐らく教室でいる時よりも激しい暴力を振るわれる様を。僕にやったのと同じ侮辱を受ける姿を。
気付いた時には、既に僕の足は動いていた。声のする方へと一歩ずつ、ゆっくりと近付いていく。次第に奴らの声は大きくなり、鈍い音や何かが擦れる音まで鮮明に聞こえてきた。
━━━━あの角の向こうだ。
校舎裏の角。この時間は日陰なっており、より一層人の近寄らない穴場だ。僕も何度か連れてかれたなぁ。
「そうか、あそこで……」
僕の胸はますます高まる。あの場所へ連れられるという事は、本当に他人に見られてはマズイ行為をされているという事だ。
虫を口に入れるなどの不衛生な行為、根性焼きなどの決定的な犯罪行為、そして服を剥ぎ取り、撮影するなどの侮辱行為。
それらの行為を僕にやったのと同じ、人間以下の扱いを、あの野蛮人が受けているのだ。
見てやりたい。そう思うのは最早当然の事だった。
しかし、あまりの興奮に僕は周りが見えなくなっていた。
「誰だ!?」
急に響いた怒号に頭が真っ白になる。しまった、見つかった、どうしよう、逃げなきゃ、怖い。様々な感情が一瞬にして全身を駆け巡る。その内に背中からは冷や汗が伝い、手足が硬直して上手く動かなくなった。
「あ……、あ……ごめ、さ……」
そんな情けない僕が絞り出したのは、言葉にもならないまるで呻き声のようなものだった。震える唇はそれ以上喋るのを許さず、僕は下を向くしかなかった。
僕は焦っていた。そして、浅はかな行動をとった自分を呪っていた。もう二度と、もう二度とやらないから許して下さい。見逃して下さい。心の中でそう叫んでいた。
だが、相手は僕が思ってもみなかった反応を返したのだ。
「何だ、お前か」
ホッと息をつきながらツカツカとこちらに歩いて来たのは、横田だった。
「あ、よ、よこた、くん、あの、これは」
「その喋り方止めろよ。キモいんだよ」
キモい。久しぶりに貶されてダイレクトに心が抉られた感覚だ。横田の特徴的な二つの垂れ目が、僕をじっくりと見下す。
横田は所謂、パシリだ。サッカー部でも専ら補欠で実力なんてない。性格も明るい方ではなく、イジメにだって積極的に参加しているように見せかけて本当は一番怯えているのだ。僕には分かる。アイツは絶対、本来なら僕と同じヒエラルキーの人間なんだ。現に今だって、奴は見張り役なんて直接手を出さなくて済む楽な役割をやっていたようだ。それだけでコイツの小賢しさが透けて見える。
「お前、何してんだよ?こんな所で覗きか?趣味悪いな」
うるせーよ、パシリの癖に。この男に罵られる度に、僕はそんな言葉を飲み込むのだ。
「なに睨んでんだよ。お前、そんな態度を取るならあの二人にチクってやるよ。覗き魔がいたって」
「……っ!」
チクるという言葉に、また僕の体はブルッと震えた。脳裏には以前まで受けていたいじめの記憶が鮮明に甦る。
泥塗れの身体、振り下ろされる無数の足。歪んだ笑顔、罵倒の数々。
その瞬間、全身の血の気がさっと引いていくのが分かった。
逃げよう。そう思い、僕は勢いよく後ろを振り返った。
その時だった。
「何してんだよ、横田」
もう遅かった。声が響くと同時に、武川と河室の二人が現れたのだ。
「あれぇ!?ガマじゃーん、久しぶり!」
「ガマくん何やってんのぉ~?」
ガマ。蛙に似ているとかいう理由で付けられたあだ名だ。恐怖で体が完全に硬直する中で呼びかけられた懐かしいあだ名に、背筋がゾッとする。
「聞いてよ二人とも!コイツ、俺たちの遊びをこっそり覗こうとしてたんだよ!」
「へぇ……」
親玉の登場に、横田は早速僕の事をぶちまけた。
━━━━もう終わりだ。絶望的な状況に、僕はまたあの地獄の日々の再来を覚悟した。
だが、二人の反応はまたも意外なものだった。
「なら、ガマも一緒に遊ぶか?」
ニヤニヤと口角を吊り上げながらそう提案したのは武川だった。隣にいる河室も「それいいじゃん」などと笑顔を浮かべている。
「あ、遊ぶ……?」
「そ。スッキリするぞ?なんせ、相手はお前を散々な目に合わせた元凶だからな!」
ドクン。その瞬間、僕の心臓は大きく跳ね上がった。
分かってる。こいつらの言う”遊び”がどれだけ卑劣な行為であるかも、この誘いに乗った瞬間、僕もこいつらと同じ穴のムジナになってしまう事も。何より、この誘い自体が何かの罠かもしれない。
乗らないに越した事はない。分かってる、分かってるよ、そんな事。きっと僕が小さい頃憧れていた漫画やアニメの主人公なら、こんな誘いには乗らない。どんな理由があろうと、人を傷付けたりしない。それが人として正しい事なんだ。そんな事、僕だって分かっていた。
「いいの……?」
だけど、そんな理性はもう微塵も働かなかった。
僕を貶め、二年もの間、虐められる元凶を作った男。毎日のように頭の中で殺し続けた男。
今、ソイツに直接手を出せるチャンスが舞い込んで来たのだ。
「お、意外とノリノリじゃん」
「もっとビビって狼狽えると思ってた」
二人は僕を小馬鹿にしながらも、優しい表情で笑っていた。
こんな笑みを向けられたのは、初めてだった。
「なら来いよ。手本見せてやるよ」
あっさりと僕を”遊び”へ招き入れた二人を多少警戒しつつも、僕はその背中を追う事にした。
振り返った時、ふいに横田と目が合った。奴は面白くなさそうな顔で僕をジトッと睨んでいた。
「な、何だよ」
僕はその醜い顔に向かって半笑いを浮かべて見せた。今の僕は暴力を振られる筋合いも、睨みつけられる筋合いもないのだから。
数秒ほど待ってみたが、返答がないので僕はそのまま二人を追った。万が一、後ろから蹴られたりしたらどうしようと内心ドキドキしていたが、結局、奴とそれ以上接触する事はなかった。
そこにいた男は、かつて僕を散々苦しめた暴君とはまるで別人のようだった。
「おーい森園~、懐かしい友達を連れて来たぞ~」
なんて呼びかけた武川の声にもピクリとも反応しない。校舎裏の湿った土の上に泥塗れで横たわるその姿は、まるで奴隷だ。
「ほら、早く行って来いよ」
「……え?」
「お前の好きにしていいからさ」
二人はまだ心の準備が出来ていない僕を森園の前へ突き出した。
「ちょ、ちょっと待って……」
「いいから、ほら!」
二人は少し離れた場所からヘラヘラ笑って僕を励ました。
━━━━怖い。
もうすっかり立場も変わったというのに、僕がこの男に植え付けられた恐怖心は無くなりはしなかった。体を殴られ、物を奪われ、人間としての尊厳を蹂躙された痛みが消える事は永久にないのだ。傷跡は徐々に化膿し、時間が経てば経つほど僕の心を蝕みつづける。
例え僕がここで仕返しをしようが、この男がどんな姿になろうが、変わる事のない事実だ。
ここに来て僕の復讐心に陰りが見え始めた。仕返しをしてやりたい、思い知らせてやりたい。そんな気持ちより恐怖の方が勝ってしまったのだ。
もう嫌だ。何で僕がこんな所に。早く帰りたい。コイツらのいない安全な場所へ逃げたい。逃げてしまおう。自分の中にそんな気持ちが充満していた。
この時までは。
「……っ!?」
刹那、足首に鈍い痛みと衝撃が走り、僕の体は泥土の上に叩きつけられてしまった。足払いを食らったのだと気付いたのは、上体を起こしてからだった。
あの男と目が合ったのだ。
「よう、ガマ。相変わらず鈍いな」
森園大地はこちらを見ていた。体を地面に横たえたまま、口元に嫌味な笑みを浮かべて。
「何?今なら反撃できるとでも思ったのか?ガマの癖に」
森園はフラフラと立ち上がった。僕より一回り大きな背中がこちらを見下げる。
その目付きは、あの頃と何一つ変わっていなかった。
「あ、もり、ぞの君、その……僕は……」
瞼の裏に、あの時の恐怖がより鮮明に甦る。
怖い、怖い、怖い……!
森園は右手拳を握り、思いっきり振りかぶった。空いた左手は無防備な僕の胸ぐらをしっかりと掴み、逃走するのを防いだ。
殴られる。そう思い、防御しようと咄嗟に両手を出した。
「お前だけは嫌だ……!」
その指の隙間から見えたのは、泣きそうに歪んだ奴の顔だった。
━━━━パシッ
気付いた時には、奴の拳は僕の手の中に収められていた。
避けるでも逃げるでもなく、奴の暴力を食い止める事が出来たのだ。それも驚くほど簡単に。きっと武川や河室からの暴力のせいで体力が弱まっていたのだろう。所詮、一時的なものだ。だが、僕は思ったのだ。
こんな弱い人間、怖くない。今なら勝てる……と。
「ぼ、僕だけは嫌だって何……?」
僕は奴の目を睨み返した。大丈夫だ。目を合わせても怖くない。
「僕には、お前を殴る権利がある!」
叫んだ勢いで右手に拳を握る。攻守交代だ。僕は思いっきり肩を引き振りかぶると、勢いのままにそれを振り上げた。
それは鈍い音をあげて、奴の固い頬にぶち当たった。
奴の喉から漏れた「うっ」という声、拳に走る鋭い痛み、じわっと広がる熱。
初めての感覚に戸惑う僕の耳に、「やった!」とどこかから歓声が聞こえた。
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