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復讐の始まり
「行ってきます。母さん、父さん」
眩しい太陽、ひんやりと程よく冷たい空気。朝らしく清々しい陽気。それだけでも喜ばしいものだが、更に今日は珍しく両親揃っての見送りだ。僕の気分も弾む。
「あら、珍しいわね。あの子があんなに笑うなんて」
「きっと学校が楽しいんだろう」
なんて両親の会話を聞き流しながら、靴ひもを結ぶ。昨日までは新品のように綺麗だった愛用のスニーカーが泥に塗れて汚れている。それが目に入ったからか、母さんは何か思い出したように口を開いた。
「そうそう。いくら学校が楽しくても、昨日みたいに制服を汚すのは止めてちょうだいね。前にも何度か言ったけど、もう立派な中学生なんだから。自覚を持ちなさい」
「……うん、気を付けるよ」
母さんは怪訝な顔で僕を咎めた。”制服を汚すな”。至極真っ当でありながら、実現の難しかった課題。
だが、これからはもう母さんを怒らせる心配はさせない。洗い立ての学ランにそう誓う。
僕は両親に軽く手を振ると、足取り軽く家を出た。
閑散とした朝の住宅街。雲間から差し込む朝日にそっと手を伸ばす。
手のひらを太陽に翳してみれば。そんな歌があったっけ。ほぼうろ覚えのその歌を思い出しつつ、今度はその手をギュッと握り締める。
すると昨日の校舎裏での出来事が脳裏にはっきりと甦る。
「……ハハ」
自然と笑みが溢れた。
あの痛み、熱、そして言いようのない高揚感。
「ハハ、ハハハ」
一度思い返すと中々止まらない。僕はニヨニヨと頬を緩ませ、拳を見つめながらゆっくり歩いた。
周囲の人から嫌な視線を感じるが、そんなものは気にしない。僕は意気揚々と通学路を進んだ。
放課後。当番の教室掃除を早々と済ませると、僕は教室を後にする。いつもならもう少し細かく掃除しているのかもしれない。端から端まで、丁寧に。
だが、今日はもうこれで終了だ。ホウキを掃除道具箱に雑に放り込むと、僕はカバンを背負った。
校舎西側一階の男子トイレ。この辺りは家庭科室や多目的室などの常に使っている訳ではない教室の羅列で、人の往来が少ない。
放課後ここで行われる事なんて、限られてくる。
「……やっぱり来た」
真っ先に僕に気付いたのは横田だった。今日も今日とて見張り役らしい。
「あの、来たっていうか、その……」
「そういうのいらねーから」
「い、いや、本当に来るつもりじゃ……」
「だからいらねーって」
横田は話を強引に遮ると、僕の腕を乱暴に掴み、そのままトイレの中へと引っ張った。
「おーい、ガマ君が来たよ」
そう呼びかけると、僕の背中をドンと押した。後ろから小さく舌打ちする音がしたのだが、まさか聞こえていないとでも思っているのだろうか。
僕は強く叩かれた背中を気にしつつも、取り敢えず前へと視線を向ける。
そこに広がっていた光景は、想定済みのものだった。
「よぅ、来たか」
「朝も昼も来ないから、ビビったのかと思ってたよ」
口々に発せられる、僕を歓迎するとも小馬鹿にするともとれる言葉を適当に聞き流す。
僕の瞳に映るのは、ただひとつ。
「いつにも増して可哀想な姿だね、森園くん」
水浸しでトイレの床に横たわる森園大地は全く反応しない。僕なりに精一杯罵ったつもりだけど、まだまだ悪意が足りなかったのかもしれない。
「昨日はどうだった?」
僕は今朝と同じように、右手をギュッと握り締める。
「僕”なんか”に殴られた気分は?」
自分でも異常に感じるほど、気分が高まっていくのが分かる。こんな事を言うとまるで中二病のようだが、さっきから疼いて堪らないのだ。昨日、奴を殴った右手が。
「大丈夫、今日も思い知らせてやるから!」
僕はそこに転がっていたモップを手に取った。
━━━━あぁ、こんな事をやってしまうなんて。
逃げないように、横たわる奴の体を片足で思いっ切り踏みつけると、躊躇なく汚れたモップを顔面に押し付ける。
おおよそ、人間のやる行為ではない。こんな事が平気で出来るヤツなんて、人間失格だ。ただの危険な野蛮人だ。そんなヤツに人権を与える必要などない。
だから、森園に人権などないに等しいのだ。
そして、奴の人権を剥ぎ取る権利があるのは、世界でただ一人。僕だけなんだ。
「ほら、飲んでよ森園くん!僕を見習ってさぁ!」
ひとしきり奴の顔にモップを押し付けると、今度は取り付けられていた雑巾を外す。そして、それを奴の顔を目掛けて惜しみ無く搾って汚水を垂らした。
かつて、森園が僕にやったように。
茜色に染まった空。真っ赤な夕日に照らされて、僕は帰路に就く。
三人の悪人と共に。
「正直、ビビったわ……」
おもむろに口を開いたのは、武川だった。
「まさかあそこまでやると思ってなかったわ。俺らでもまだ出来ねーよ」
「いや~、見くびってたわ、ガマちゃんの事」
「だって昨日は急に殴ったと思ったら走って帰ったのにさ」
「イキナリの覚醒だもんな~」
武川と河室は二人でワイワイと盛り上がり始めた。どうやら僕は褒められているらしい。人に暴力を振るった事で褒められるなんて、世も末だ。
なんて考えながら歩いていると、突如河室が僕の方へ寄って来た。
「これからも仲良くやろうな!ガマちゃん!」
そう叫んだかと思えば、僕の首に腕を回してきた。所謂、肩組みというヤツだ。
「な、仲良く……?」
「そ。お互い秘密を共有する者として、さ」
調子よく笑う河室に、僕は薄く笑みを浮かべる。
河室というこの男に、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱きながら。
どの口がほざいているのだろうか。ちょっと前までは森園と一緒になって僕を追い詰めていた癖に。結局、コイツらはその時自分にとって都合のいい相手の側にいたいだけ。中身なんて何一つない、思考停止のつまらない人間なんだ。
だけど、それでも。僕が一番憎いのは森園大地ただ一人だ。奴を貶められるなら、このつまらない人間たちと手を組んだっていい。
そう思えるほどに、僕は森園への復讐にのめり込んでいた。奴を痛めつけると異様な高揚感に襲われるのだ。今までに経験した事のない程の興奮、喜び。違法ドラッグを使った人ってあんな感じなのかな。使った事ないから分からないけど。
何だかまるで、自分の中に別の人格が出来上がってしまったような、変な感覚だ。
だから自分で自分がちょっと怖い、なんて……
「なぁ……あのさぁ!」
物思いにふける僕の耳に、つんざくような大声が木霊する。勝手に盛り上がっていたあの二人も、驚いて声のした方を振り向く。
そこには、さっきからずっと黙りこくっていた横田が目を吊り上げて立っていた。
「な、何だよ。いきなり大声出して」
「いきなりじゃない。ずっと呼んでた」
実は横田はずっと皆に何かしら話しかけていたらしい。あの二人が騒がし過ぎて僕にすら聞こえなかったけど。
「まぁそう怒るなよ。聞いてやるから」
慌てて武川が横田を宥めた。パシリとはいえ、横田の事だって仲間だと意識しているのだろう。全員、碌でもない人間ではあるが、森園との決定的な違いはこういうところにある。
仲間に諭された横田は、すぐにいつも通りの落ち着きを取り戻した。
かと思えば次の瞬間、僕を睨みつけて、こう言ったのだ。
「二人とも、何でこんな奴を仲間に入れるんだよ」
僕はギクリと肩を跳ねさせた。
武川と河室は比較的、僕に好意的だ。だが横田はあからさまに僕を敵視していた。なのでこんな事を言い出したとしても何も不思議ではないのだが、とはいえ突然の事で僕の背中は瞬時に冷や汗でビシャビシャになってしまった。
「いや何でって言われても……」
「どーしたの横田?もしかしてヤキモチか~?」
突然の横田の問いかけに困惑する武川、茶化す河室。そして肝心の僕はというと、すっかり怯えてキョドりながら口をハクハクさせる事しか出来なかった。
誘ったのはそっち側なのに、何で僕が疎まれないといけないんだ。はっきりとそう言ってやりたかったが、やはり僕の口は上手く動かない。こんな性格だから、横田は僕の存在に嫌気が差したのだろうか。
それでも。それでも、僕はグループを外されたくはなかった。足りないのだ。あの程度じゃ森園は反省しない。いや、最早アイツの反省の有無なんてどうでもいい。僕の気が治まらないのだ。明日もその次も、ずっとアイツを懲らしめてやりたい。力ずくで押さえつけてやりたい。あの興奮を手放したくない……!
僕は弁明を試みる事にした。自分の意見くらいはっきり伝えなければ。
と、思いっきり息を吸った時だった。僕の耳に思いも寄らぬ言葉が飛び込んで来た。
「怖いんだよ……!」
横田は苦虫を噛み潰したような顔で話し始めた。キョトンとする僕とあの二人を見ると、更に不安げな表情で視線を逸らす。
「見ただろ?コイツのやり方。あれは流石にやり過ぎだろ!あんなの続けてるといつかバレる!」
横田の表情は段々と切羽詰まったようなものへと変化していく。
「それに……何ていうかコイツ、普段は大人しいのに森園を前にするとまるで別人みたいになるし……!」
最後には、何かに酷く怯えているような表情に変化した。
そして、横田は僕の目を見てはっきり言ったのだ。
「気味が悪いんだよ、お前」
「気味が悪い……?」
そんな風に思われているとは考えてもみなかった。が、自分でも自分を怖いと感じるのだから、他人に怖がられて当然だ。寧ろ武川と河室の二人のようにすんなり受け入れられる事の方が珍しいのかもしれない。
横田の意見を聞いた二人は、暫く黙ったままだ。まさか、「言われてみればそうかも」だなんて考えているのではなかろうか。いや、さっきまであんなに好意的だったんだからそれはない。……とは言い切れないか。森園のような人間に平気で賛同する脳筋野郎どもを頭から信用する事ほど馬鹿な事はない。
なら、どうすればいいのか?
僕は半ばパニック状態だった。何か言わないと、でも何を言えばいいの?分からない、分からないよ。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……
━━━━そうだ。
こんな時、あの悪魔なら……。
「……横田くん」
僕の口は動いた。さっきと比べると驚くほど流暢に。
「森園くんを庇ってるの?」
「……はぁ?」
「僕を批判すると見せかけて、森園くんを助けようとしたんじゃないの?」
「お前バカか!?んな訳ねーだろ!」
「少なくとも僕にはそう聞こえたよ」
「論点ずらしたいだけだろ!」
「僕は!森園大地が憎いだけだ!」
言い合いの末、先に言葉を詰まらせたのは横田だった。横田は僕の勢いに根負けしたように、視線を彷徨かせながら俯いた。
暫しの沈黙。それを打ち破ったのは、武川の一言だった。
「どうでもいいけどさぁ……確かに森園の野郎を庇ったりしちゃダメだよな」
俯いていた横田がバッと顔を上げる。その表情は悲痛なものだった。
「はぁ!?何言って……っ」
「そうじゃないなら、この話は終わり。それでいいだろ?」
なんと。二人は僕の味方についたのだ。以前までなら考えられない展開に、僕の口元も緩んでしまいそうだ。
横田は歯をギリギリと軋ませて悔しそうに僕を睨んだ。そんな目で見られたところで、今の横田なんて何一つ怖くない。僕は白々しい態度で目を逸らす。
「いいか?アイツは俺たちを騙してたんだぞ?あんなヤツがどうなろうと知った事じゃない」
「”やり過ぎ”なんて無いんだよ。アイツは家畜以下だからな」
武川と河室はウンウンと頷きながら、淡々とそう語った。横田も未だ不服そうな表情ではあるが、二人の言い分に突っかかる事はない。
どうやらこの三人、特に武川と河室は森園に相当腹を立てているようだ。少し前まではそれこそ犬のように従順に森園を慕っていたのだが。まぁ、奴らに何があったかなんて全然興味ないけど。
その後も横田がこれ以上騒ぐ事はなく、僕たちは静かに家路についた。
横田に吹っ掛けられた喧嘩は、僕の勝ちで終わった。
だが、僕は気付いてしまったのだ。その勝利が恥ずべきものだった事に。
「クソ……ッ!」
誰もいない家、薄暗い部屋。
帰宅した僕は、何もかもを破壊したい衝動に駆られていた。カバンをぶん投げ、机に置いてあるあらゆる物を薙ぎ倒し、ベッド上の枕に拳をぶつける。
僕は、森園大地を支配したつもりになっていた。イジメという手段で虐げられたこれまでの記憶に上書き保存するように、僕は森園を虐げた。奴の体を殴り、心を踏みつけ、権利を奪って。
だけど気付いたのだ。これだけやっても、僕は”森園大地による支配”から逃れられやしないのだと。
その証拠が、横田との喧嘩だ。アイツを打ち負かす為に僕が参考にしたのはどこの誰だった?誰よりも口が回り、場をコントロールする力を持つ者として、頭に浮かべたのは誰だった?
おかしいじゃないか。こんなに憎んでいるのに。
━━━━そう。どんなにアイツを虐げても、立場が変わったように見えても。
この先、未来永劫、僕は森園大地に支配され続けるのだ。
「許さない……!」
僕を虐げた男。僕から自由を奪った男。僕を野蛮人へと変えた男。僕を支配し続ける男。
この日、僕の復讐心はますます強まった。
分かっている。こうやって恨み続ける限り、森園による支配からは抜け出せない。
でも、知ってしまったのだ。憎い人間を叩きのめす事がどれだけ僕に快感を与えるのかを。もう後戻り出来ないところまで来てしまったのだ。ならば、全力でアイツを潰してやればいい。
それだけが唯一、僕を救うのだ。
あれから更に一週間が経過した。環境の変化にもすっかり慣れた僕は、あの三人組とも何とか上手くやっていた。とはいえ、仲良くなったつもりなんてないけど。
武川と河室は僕に嫌に優しい。恐らく、以前まで僕に対して働いていた行為を後ろめたく思っているのだろう。アイツらは人間関係の変化に鋭い。森園を捨てリーダーを失ったあの二人は、もしかしたら代わりに僕を祭り上げようとしているのかもしれない。
そんなものは、真っ平ごめんだ。
僕はアイツらといつまでも群れるつもりはない。今は森園への復讐を遂げる為、利用しているだけだ。正当な理由での復讐とはいえ端から見れば悪事を働いている事には変わりない。悪い事をするには、それなりの”仲間”がいた方がいい。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とはよく言ったものだ。
だが、僕は少し群れる事に慣れすぎたのかもしれない。
午後五時過ぎ。辺りは段々薄暗くなり、部活動をしていた生徒たちも続々と帰路に就き始める。
普段なら僕もそろそろ学校を出る時間だ。いや、実際出る筈だった。正門に差し掛かった辺りで忘れ物に気付き、三人に先に帰るよう告げて戻って来たりしなければ。
そんな事さえなければ、森園大地と鉢合わせる事なんてなかったのだ。
「……何だ、お前か」
森園は至って冷静な態度を見せた。横目でチラッと僕を見たかと思えば、視線をすぐに手元へ戻した。
奴と鉢合わせたのは、教室のすぐ傍の手洗い場だった。弁当箱を忘れた僕は職員室で鍵を借りると、急いで自分のロッカーに入っていたそれを取り出した。早く帰ろう。そう思い、教室に鍵を掛けると行き道とは違う、近くの階段を利用しようとした。
その時、手洗い場でドロドロに汚れた体操服をもみ洗いしている森園と出くわしたのだ。
森園と会わないように、奴を連れ込んだトイレを避けたのがこういう皮肉な結果を生んだのだ。
当然、僕は奴を無視した。今の森園に体力はない。十分逃げられる。僕は森園の後ろを通り過ぎると、早足でその先の階段へと急いだ。
……その時だった。
「おい、待てよガマガエル!」
その声を聞いた途端に僕の体は硬直した。
頭の中にあの光景がフラッシュバックする。
汚いトイレで、ビショビショになって、殴られて蹴られて。くたくたで動けない僕の髪を何者かが乱暴に掴む。そして無理やり引っ張り上げ、僕の目を見て言うのだ。
「早く起きろよガマガエル!」
森園の一声で過去のトラウマに心を支配され、僕の頭は真っ白だった。
そんな僕を正気に引き戻したのも森園だった。
「ほーん、マジで止まるとはなぁ」
ニヤニヤしながら僕に近づく森園。その姿を視認した時、僕はやっと我に返った。
「森園、くん……」
「やっぱガマは変わんねーな。立場はすっかり逆転したのに俺を呼び捨てにすら出来ない」
言われて僕は思わず口を塞いだ。そうだ。あの三人と一緒に森園を虐める時は、奴を呼び捨てにしている。なのに僕は……。
「何でそうなるのか、教えてやろうか?」
森園が更に詰め寄る。
「お前の支配者は、俺だからだ」
森園が昔やったように僕の髪を乱暴に掴む。
「お前は俺から抜け出せない」
森園が僕の顔をそのまま壁に押し付ける。
「学校を卒業しても!社会に出ても!ずっとだ!お前はずっと俺に支配され続けるんだよ!」
最後に奴は壁に僕の顔を押し付けたまま、瞳孔をかっ開いてそう叫んだ。その勢いで奴の汚い唾が僕の顔に飛ぶ。
その瞬間、自分の心の奥底から沸々と怒りが沸き上がった。頭に血が昇り、全身がカァッと熱くなる。
「……てる」
僕は森園の腕を掴み返す。
「そんなの知ってる!!」
奴の体を思いっきり突き飛ばした。すると驚くほど簡単に奴は体勢を崩し、無様に尻餅をついた。やっぱりコイツはかなり弱っている。
「そうだ!その通りだ!僕はお前の支配から逃げられない!毎日毎日朝から晩までお前を憎んで!悪い事があったら全部お前のせいにして!放課後にはお前を蹴っ飛ばしておかないと気が済まない!折角イジメが終わったのに、僕は……僕は……っ」
言葉が詰まったと同時に溢れる涙。
━━━━あぁ。例えば、もしも今すぐ遠くに転校する事が出来たなら。こんな奴の事なんか忘れて心機一転、普通の中学生として生きられるのかな。
本当は僕だって、毎日のようにそんな事を考えているんだ。
森園は僕の叫びを眉一つ動かさずに聞いていた。多分、何とも思っていないのだろう。それでいい。
「……もういいだろ」
僕はゆっくり立ち上がると、制服に付いた汚れをはたき落とす。制服はこないだ母さんに洗って貰ったばかりだ。あまり汚す訳にはいかない。
トントンと制服を軽く叩くと、いつの間に落としていたカバンを拾い上げる。早く帰ろう。勉強で忙しいんだ。
「俺はとっくに支配者なんかじゃねーよ」
後ろからまた森園の声が聞こえた。今度はさっきとは違い、柔らかな声色だ。
だからといって立ち止まらなくてもいいのに。何故か僕の足はまたしてもピタリと止まっていた。
「お前は知らねーだろうけど、俺の父親、ある高校の校長だったんだよ」
何の脈絡もなく急に始まる森園の身の上話。聞いてやる価値なんてない。早く帰ろう。
「武川と河室……あの二人な、親父の高校に入りたがってたんだよ。サッカーの強豪なんだとよ」
帰ろう帰ろうと思いつつも、中々足が動かない。怖い訳じゃないのに。
「だから言ってやったんだよ。ウチの親父に言えばお前ら二人くらい何とかしてやれるって。それ以来、アイツらは俺に従うようになった」
僕はゆっくりと奴の方を振り返った。
「楽しかったなぁあの頃は!だってアイツらマジで何でも言う事聞くんだからな!んでその様子を見てた周りの奴らも俺に怯えて口出しとかしねぇんだよ。馬鹿ばっかりだから!」
森園はまるで遠い記憶を懐かしむかのように呑気に笑っていた。笑っているのに、その表情からは何故か少し切なさを感じる。
そうやって口角を上げながらも、森園は窓の外の遠くの景色に目を移した。
「ま、全部ウソだけどな」
森園は満面の笑みで振り向いた。
「んなウマイ話があるかよ。アイツらの志望してた高校を調べたら、校長が俺と同じ名字だったから適当に騙しただけ。すぐ気付くかと思ったけど案外長持ちしたよなー」
まるで他人事のように話し続ける森園。その気味の悪さから僕の目は離れなくなっていた。
「で、それだけ長持ちしたせいでメチャクチャ恨まれたってオチ」
森園の真っ黒な目玉が、僕を捉える。
そしてその低い声が、こう問うのだ。
「……どう思う?」
何を狙っての質問なのか。何を試す質問なのか。皆目見当がつかなかった。そもそもどうしてわざわざ僕にこんな話をしたのか。同情を引きたかったのか?それとも別の企みがあるのか?
分からない。ただただ、気持ち悪い。
「知らないよそんなの」
僕はそう告げると、今度こそは本当にその場を立ち去った。 森園は追って来る気配はなかったが、あの黒い瞳で後ろからずっと見られている気がしてならなかった。
その不気味さを振り払うように、僕は全力疾走で家路を急いだ。
━━━━今、思えばこの時すでに歯車は狂っていたんだ。
それに気付ければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。
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