唯一の希望すら

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唯一の希望すら

すれ違う雑踏の波。疲れた顔の大人たちがロボットのように歩いて来る。 「い……っ」 そのうちの一人と肩がぶつかる。不意の事に対処しきれず、僕は尻餅をつく。顔を上げると、みんな僕の事なんか見向きもせず歩いていて、一体誰とぶつかったのか見当もつかない。 ━━━━あれ?ここどこだっけ? 見上げると外はもうすっかり真っ暗。僕はというとカバンを持たず、上履きも履いたままという格好だった。何でこんな姿なんだっけ。すれ違う人々の邪魔だと言わんばかりの視線を無視し、暫く立ち止まって考えてみる。 あぁ、そうか。僕の目の前でまた人が死んだんだっけ。 残念な事件だったな。森園さえいなければ起きなかった。可哀想な三人。まぁ自業自得だけどね。それにしても、あんなに上手い具合にドミノ倒しが起こるなんて。少しでも位置がずれればきっと起こりはしなかっただろう。そう考えると凄い事だ。 ふと自分の服装に目を向ける。そういえば、カバンや上履きはどこに置いた?えーと……思い出せないな。あの時はとにかく焦っていて、それどころじゃなくて……。 ここでやっと思い出す。そうだ、カバンは階段の辺りで落としたまま持って来るのを忘れたんだ。慌てていて靴さえも履き替えるのを忘れていたんだ。 「あ、あぁ……」 その事を思い出した瞬間、僕は自分がどれだけ危機的状況にあるかを理解した。 「ど……しよう」 オロオロと周りを見回す。が、道行く大人は僕の事なんか見向きもしない。そうだ、事件の事はもうニュースになっているんじゃないか?少し前に森園の件もあったから、かなりの騒ぎになっているに違いない。だとしたら僕が疑われる。マズイ、マズイ! ニュースを確認しようにも、スマホがない。もう一度辺りを見回してみるが、情報を発信するものは何もない。あるのは知らない人達の無機質な靴音や断片的に聞こえてくる話し声だけだ。 「逃げなきゃ」 僕はくるりと踵を返すと、人波に乗って走り出した。何処に逃げればいいのかなんて分からない。でも此処にいてはいけない。逃げなきゃ、早く逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……。 あぁ、何で僕がこんな目に合わなくちゃならないんだ。 全て森園大地が悪いのに。 ━━━━ドンッ。 焦って前をよく見ていなかったらしい。誰かとぶつかって勢いよく転ぶ。 「い……っ」 瞬間、身体に走る鋭い痛み。だが、ここ最近転んだりぶつけたりしてばかりで何もしていなくても全身が痛いのだ。もうどこが痛いのかなんて分からない。 こんな事に構ってはいられない。早く行かないと。 僕は立ち上がると、もう一度走り出そうとした。 「……待て!」 だが、その時。誰かが僕の腕を掴んだのだ。 「ひっ!?」 心臓を掴まれた気分だった。冷静に考えればこんな事有り得る訳ないのに、その人が事件を知っていて僕を追っている人間のような気がして。僕は必死でその手を振り払おうと足掻いていた。 「離せ!離せよ!」 「いいから落ち着け!おい!」 全力で暴れて抵抗するも、相手はかなり力の強い人間らしい。凄い握力で僕を引き寄せる。 「うわああ!」 もう終わりだ。本気でそう思った。 ……だが。 「父さんだ!落ち着け!」 父さん。そう言われて顔を上げてみると、困惑の表情を浮かべる父がいた。 「何をそんなに怯えてるんだ。周りの人に誤解されるだろ」 よく考えてみると、聞き慣れた声だ。まさかこんな所で出くわすと思っていなかったとはいえ、全く気が付かなかっただなんて。それほど自分が追い込まれているという事だろうか。 「ご、ごめんなさい……まさか父さんだとは思わなくて」 僕はニヘ、と笑みを浮かべた。いつも通りを装ったつもりだったのだが、それがぎこちないものになってしまった事には自分でも気付いていた。父さんの顔が曇るのも無理はない。 「一体どうしたんだ」 「父さんこそ何で……」 「何でって、父さんはいつもここの駅を使ってるんだが、知らなかったのか?」 言われて見てみると、近くに家からの最寄り駅があった。なるほど、だから人通りが多かったんだ。そうぼんやり思った。 「というかお前こそこんな所で何やってるんだ?ここは学校から反対方向じゃないのか?」 ドク、と心臓が大きく跳ねる。どうしよう。何て答えればいいのか分からない。 「荷物はどうしたんだ?家に置いて来たのか?」 矢継ぎ早に質問され、取り敢えず首を縦に振る。 あんな事、父さんと母さんには知られたくない。もし知られたら……。 というか学校か警察から連絡が来たりしていないのだろうか。こういう時、警察は一番最初に親に聞き込みに来るような気がする。何か聞いているのではないのか。だからこんなに心配しているのか。 「ね、ねぇ、母さんから何か……聞いてない?」 父さんの目をじっと見つめる。すると「質問に質問で返すな」とぼやきつつも父さんは答えてくれた。 「事情は知らないが、母さんから早く帰るようにと連絡があった。仕事は抜けたくなかったんだが、ただ事ではなさそうな雰囲気だったからな。取り敢えず帰って来たんだ」 やっぱり、既に母さんには連絡されているんだ。母さんの絶望した顔が思い浮かぶ。 「お前は、何か知ってるのか?」 父さんは眉一つ動かさずに淡々と話した。その鋭い目が僕を捉える。 知っているも何も、当事者だ。しかも、いつも他人の心の機敏には疎い筈の父さんが"ただ事ではない何か"を察知する程の大事の。 また全身から汗が吹き出る。これじゃあ何か知っていると認めたかのようだ。 どうしよう。何て言えばいいの?僕は悪くないのに。何を言ったって僕が疑われる。僕は悪くないのに。どうしてこんな目に。僕じゃないのに。僕のせいじゃないのに。 全部、森園大地が悪いのに! 「……おい、どうしたんだ。何か答えなさい」 ハッとして顔を上げると、父さんと目が合った。その表情はいつになく怪訝なもので、心配しているというより怒っているようだった。 どうしよう。これ以上話をはぐらかすのは危険過ぎる。そんな事をして逆に何か勘づかれるのは困る。そうだ。自分の身に起きている事を少しだけ話してみるのはどうだろう。父さんは医者だから。僕に何が起こっているのが分かるかもしれない。 「あの、さ……父さん」 ゴクリと唾を飲み込む。 「僕、死んだ奴が……視えるんだよね」 さっきより増して厳めしい顔になった父さんから目を逸らす。きっと僕がちんぷんかんぷんな事を言い出したと思っているのだろう。 「ソイツはいつもいる訳じゃないけど、時々急に僕の目の前に出てくるんだ」 話が進むにつれて、父さんの顔が見られなくなる。 「それで……それで、ソイツが僕に話し掛けてくるんだ!嫌な事を言ったり煽ったり!僕はソイツが嫌いなのに!」 僕は怒りの感情に任せたまま、叫んだ。 「今、起こってる事、全部ソイツのせいなんだ!」 気づけば、肩が上下するほど息を切らしていた。 とにかく話を聞いて欲しくて、出来れば分かって欲しくて。ただ、それだけだった。 それだけだったのに。 「訳の分からない事を言うんじゃない」 父さんは冷たい視線で僕を睨みつけていた。 「ち、違……っ」 「何が違うんだ。さっきからふざけた事ばかり言って。何のつもりだ?」 「ふざけてなんかないよ!ねぇ、だからせめて最後まで……」 「そうか。ならもう一人で喋りなさい」 父さんは気だるげにそう吐くと、早足でこの場を去って行った。 僕はその背中を黙って見ていた。勿論、追う事だって出来た。でも、とてもそんな気にはなれなかった。 「聞いてすら……くれないの……」 僕の両頬をまた涙が伝う。もう昼の内に枯らしたと思っていた涙が、大量に。 まともに取り合って貰えるだなんて、僕だって思っていなかった。イジメの事も何一つ知ろうとしなかった親だ。まともな答えなんて期待するだけ無駄だ。 だけど、せめて話くらいは聞いて貰える気がしていたんだ。誰かに話す事が出来れば、森園の支配が解けるかもかもしれない。そうすれば、自分のした事と向き合えるかもしれない。"全て森園のせい"と自分に言い聞かせる事も、罪から逃げる事も辞められるかもしれない。その結果、例えば精神異常者扱いされたりしたって構わない。そう思っていたんだ。 でも、それももうおしまいだ。 頭の中に森園大地の笑い声が響く。こちらを指差しながら、ヒャヒャヒャと楽しそうに嗤っている。 ━━━━あぁ、やっぱり僕はこの男に一生支配されなきゃいけないんだ。 それなら、いっその事。 『死ねば?』 どこかから、そんな声が聞こえた気がした。
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