きっと、明日からは

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きっと、明日からは

ガチャリ。その扉はいとも簡単に開いた 「寒いなぁ…」 冬の夜風が素肌を刺す。周囲には風を遮るものが何もなく、その上、二月真っ只中で今晩もかなり冷え込んでいる。学ランを着ていても寒さを凌ぐには足りなさ過ぎる。ピューピューという甲高い音を聞きながら、ぶるりと身体を震わせる。 今日、僕はここで死ぬ。 うちの学校の近くには、廃ビルがあった。かなり年季の入ったビルで、物心ついた頃には存在していたと思う。長年取り壊されないのは幽霊の呪いだとか自殺スポットだからだなんて噂もある。 今、僕はそのビルの屋上に立っている。端から見ている分にはそう高いビルには見えなかったが、登ってみるとまた違った印象だ。意外と遠くまで見渡せる。 「綺麗だな……」 広がる街明かりがまるでイルミネーションだ。景色には小さい頃から興味がなく展望台などの類いには登った事がなかったのが今更ながら悔やまれる。 それ以外にも、やりたい事ならいくつもあった。もっとたくさん本を読みたかった。勉強もしたかった。良い高校に入って両親を喜ばせたかった。イジメのない学校に通いたかった。友達を作りたかった。青春、と呼べる経験をしてみたかった。それで、大学にも入って……。 出来るなら、両親と同じ医者になってアイツらを見返したかった。 でも、もういいのだ。何もかもどうでもいい。 『さ、もういいんだろ?とっとと死ねば?』 振り返ると、そこに森園大地が立っていた。不敵な笑みを浮かべ、じっとこっちを見ている。 『ほら、何ぐずぐずしてんだよ』 森園は僕の横を素通りすると、ビルの縁に乗った。 『ここから飛び降りるだけ、簡単だぞ?』 森園のかさついた唇が三日月のように弧を描いて笑う。光の灯らない瞳が僕を蔑む。 もうすっかり見飽きた表情だ。 「そうだね……」 だが、もう抵抗する気はない。奴の幻影を消し去ろうとしたり、無視しようとしたり、そういった行為全てが無意味だと知ったから。 靴を脱ぎ、丁寧に並べる。普通ならそこに遺書も添えるのかもしれないが、そんなもの用意する暇がなかったから。別に、伝えたい事もないし。 そう、どうでもいいんだ。 ビルの縁に片足を乗せる。何だか急にバクバクと鼓動の音が全身に響き始めた。まるで大太鼓でも叩いているように。 しかし、そんなものは無視だ。今、ここで死ねば楽になれるんだ。怖いのなんて一瞬で、即死なら痛みだって感じない。 『はい、じゃあカウントダウンするぞ~』 森園の間延びした声が聞こえる。幻影に自殺を急かされるなんて、笑える話だ。 『ごーお、よーん、』 そうこうしている内に本当にカウントダウンし始めた。鬱陶しいなぁ。 『さーん、にーい、』 まぁでも、タイミングを計るにはちょうどいいか。 『いーち』 ━━━━さぁ、行こう。 足にグッと力を込めて、目を閉じる。今まで碌な事がなかったから、せめて最期くらいは楽しい思い出を。そう願った。 なのに。 瞼の裏に浮かんだのは、森園の死に顔だった。 あらぬ方向に折れ曲がった手足。血に塗れた顔。恐怖に見開かれた目。 「……っ」 途端に、僕の足は動かなくなった。 鳴り響いていた心臓の音は速度を増し、走ってもいないのに次第に息が乱れ始めた。どうなってるんだ。深呼吸をして治めようとするも、余計に悪化するばかり。苦しくて、酸素が欲しくて思いっ切り息を吸い込むと、今度は冷たい空気が喉に絡んで咳き込んでしまった。 「ゴホッゲホッ」 何だこれ、何だこれ。僕は早く死にたいだけなのに。早く死なないといけないのに。 しかし、そうやって死を望めば望むほど、鼓動はどんどん早くなる。 「ハァッハァッ……」 息が出来ない。苦しい。 ━━━━もう嫌だ……! 僕の心は遂に折れた。ビルの縁から降りると、その場に倒れ込んだ。 「はぁーっ、はぁーっ」 その瞬間、波のようにどっと押し寄せる安心感。呼吸が整い、心臓の音も落ち着く。口元に自然と笑みが浮かび、晴れやかな気分に包まれる。 あぁ、良かった。 心の底からそう思っていた。 しかし。 『何が良かったんだよ』 その声が聞こえた瞬間、僕は自分の目的を忘れていた事に気が付いた。 『おいガマガエル。お前そんな事も出来ねーのかよ』 呆れ返ったその声が僕を追い詰める。 『ビビってんじゃねーよ!』 脳内に響き渡る怒号に、耳を塞ぐ。両目からは大量に涙が溢れ出し、恐怖に歯をガチガチ鳴らす事しか出来ない。 「ビビってなんか……」 そう言いかけて、止めた。 怖いと思ったのだ。森園のように身体中ズタズタになって血塗れになって死ぬのが。 恐怖に見開かれたあの目は語っていた。死ぬのは決して楽なんかじゃない。痛くて、苦しくて、惨めで、恐ろしい事だと。 あの死に顔を思い出した瞬間、僕の足は鉛のように固まった。 怖くて、今すぐに逃げ出したくて。 実際、僕は逃げた。 『……何だ。認めんのか?』 森園の表情が醜く歪む。 『ふざけてんじゃねぇぞ!お前はここで死ぬんだよ!』 「うぅ……っ」 響き渡る森園の声に僕はとうとう蹲る。 『お?また聞こえないフリか!お前はそうやっていつも逃げる!』 もう何も言い返せない。 『そんなだからお前は支配されるんだよ!』 嫌だ、これ以上は聞きたくない。 『グズで、馬鹿で、陰険で、恨みがましくて!そのクセ何でも他人のせいにする!』 違う、僕じゃない! 『本当は全部お前のせいなのに!』 ━━━━あぁ。 僕の中で何かが決壊した。 あれから何時間経っただろう。 いつの間にか小雨が振り出し、やがて雪になった。制服はすっかり濡れ、あまりの寒さに僕は肩を抱き、蹲り ながら震えていた。 それでもまだ、死ねずにいた。 『おーい、いつまで寝てんだよ』 あ、また声が聞こえる。 『早いとこ飛び降りないと、凍死するぞ?』 森園は僕を煽るように挑発的な態度を取る。 『あー、まぁでも死ぬのに変わりはないか。ハハハ』 相変わらずの薄汚い笑み。これを見る度に僕の神経は逆撫でされていたのだが、今回は違うらしい。 そう。不思議なくらい、穏やかな気分だ。 「……本当は分かってたんだ」 今なら認められる。 「森園が死んだのも、武川たちがあんな事になったのも、全部僕のせいだって」 僕の言葉に、森園は目を丸くする。その表情は彼の最期のものと瓜二つだ。 「森園のせいにすれば楽だから。だから、ずっと逃げてきた。自分と向き合う事から」 ギュッと拳を握り締める。大丈夫だ。全て認められる。 「憎い奴だからって森園に罪を押し付けて、自分は被害者面していれば、いつまでも"可哀想"でいられるから」 僕は森園大地のイジメの被害者だった。それは未来永劫変わらない。今回の事だって元を辿れば森園の撒いた種だし、僕の性格がここまで歪んだのも森園に原因があると言っても過言ではない。 だけど、実際やったのは僕なのだ。その事実だって未来永劫変わらない。森園大地を殺し、武川たちを階段から突き落とした。紛れもない僕の意思で。 『何で……』 森園は心底不思議そうな顔をしていた。 『何でそう思うんだよ』 言わなくても分かるかな、と思ったんだけど。やっぱりそういう訳にはいかないらしい。 「気付いたんだよ」 僕は寒さで固まった表情筋を何とか動かし、ニッと笑ってみせた。 「そうやって森園のせいにしている限り、支配からは逃れられないって」 ━━━━あの時。 森園が僕に"お前のせいだ"と言った時。何故かその声が自分のものに聞こえたんだ。 そう。あの叫びは僕自身からのメッセージだったんだ。罪から逃れる為に作り出した森園の幻影。森園が喋りそうな事を喋り、僕を追い込むと見せかけて何もかもを他人のせいにする為の便利な道具。それは僕の分身でもあったのだ。 だって僕が作り出したのだから。 『……』 森園は口を開いた。何か喋るのか。そう思って聞き耳を立てていたのだが。 『……っ』 森園はふるふると首を横に降った。言いかけて止めたのだろう。 「森園……くん」 話して。そう言おうとした。 しかしその直後、森園はフッと消えてしまった。 「え……?」 僕はキョロリと辺りを見てみた。が、それらしい人間はおろか、気配すら感じない。 「消え……た……?」 そう確信した時。僕の目から一筋の涙が溢れた。涙はどんどん溢れ、雪に塗れたコンクリートの上へと流れ落ちる。 これまでも幾度となく泣いたが、嬉し泣きをするのは初めてだった。 「勝った……やっと勝った……」 溢れ出るその涙を拭き取る事も出来ない。 もう手を動かすのが苦しいのだ。 「やった……やった……」 だけど、僕は喜びに満ち溢れていた。 もう森園の影に怯える事はない。それだけで僕にとっては明日への活力が湧くのだ。 もう、死ぬのなんて止めよう。明日になったら、ちゃんと警察に行こう。 それが、今の僕に唯一出来る事だ。 安心すると、途端に瞼が重くなる。さっきまで悴んで痛くて堪らなかった指が、もう痛くない。それどころか、身体中がまるで何かに包まれるように、心地良い。 「よかっ……た……」 僕はゆっくりと身体を横たえた。 なんか眠いなぁ。今日はもう寝よう。そんな軽い気持ちで目を閉じる。 いつの間にか広がっていた、綺麗な雪景色の映像を最後に。
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